2:随想録

2008年12月15日 (月)

頑固さと柔軟さ(完全版)

いまここに自分が作った一つのメロディがある、とする。

作編曲するとき、「ここのコード(和音)はこれでなくてはいけない」という種類のこだわりを持つことは、職人としても、アーティストとしても大切だ。
それは、己の審美眼を研ぎ澄まし、信じることと同値である。

また、自分と違う様々な価値観や美意識、正義、常識などを、頑なに拒否したり攻撃したりするのでなく、(その多様性を)受け入れることは、職人としても、アーティストとしても、人としても、国家としても大切だ。
作編曲するとき、「ここのコードはこう変えるのもアリかも知れない」と柔軟に捉える姿勢は大切なのだ。
それは、己の器を広げ、新たな可能性を探ることと同値である。

こだわること(頑固さ)と受け入れること(柔軟さ)、一体どっちが大切なんだ?
とちょっと思うけど、この二つは(音楽をしていく上で)相反する姿勢ではなく、どちらも欠かせない両輪なのではないか。

頑固なだけでは広がっていかないし、柔軟なだけでは深まっていかない。

たぶん、そういうことなのだろう。

だから、できる限り、頑固かつ柔軟な人になりたい。
と、日々思う。

難しいのは、「ここはこのコードしかない」(あるいは反対に「ここにこのコードは美しくない」)という確信を持ったときに、果たして今自分は柔軟さを失っていないだろうか、という問いが浮かぶ場合と、「ここはこのコードでなくて別のこっちのコードも良いな」という新たな可能性を受け入れようとするときに、果たして今自分は確固たる審美眼を見失っていないだろうか(審美眼が鈍っているからどっちも良いと思ってしまうのではないか)、という問いが浮かぶ場合である。

大抵の場面では(いつも)、この両極の間をグルグルと右往左往している。
達観の域は果てしなく遠い。

by りき哉

2008年12月12日 (金)

頑固さと柔軟さ(初版)

作編曲するとき、「ここのコード(和音)はこれでなくてはいけない」という種類のこだわりを持つことは、職人としても、アーティストとしても大切だ。

また、自分と違う様々な価値観や美意識、正義、常識などを、頑なに拒否したり攻撃したりするのでなく、(その多様性を)受け入れることは、職人としても、アーティストとしても、人としても、国家としても大切だ。
作編曲するとき、「ここのコードはこう変えるのもアリかも知れない」と柔軟に捉える姿勢は大切なのだ。

by りき哉
(完全版を近日アップ予定。)

12/15、完全版をアップしました。
頑固さと柔軟さ(完全版)

2008年11月22日 (土)

音楽は何要素か?

音楽はリズム、ハーモニー、メロディの三要素から成り立っている
・・・という話を無邪気に鵜呑みにしてはいけない。
それはパラダイム(世界観)のひとつである。
音楽には無数の要素があるけど、その三つの要素に絞って音楽を捉えようとする、一つのモノの見方にすぎない。

音楽の何を捉えるか、そこに何を聴き取るか、モノの見方はいろいろある。

たとえば、音色の変化自体が本質である音楽などは、その三要素では捉えられない。

音楽をリズム、ハーモニー、メロディの三要素で分析的に捉えることで見えてくること(恩恵)もあるし、それによって見落としてしまう(大切な)ことも、たくさんあるだろう。

・・と、思う。

by りき哉

2008年11月 7日 (金)

縁とタイミング

縁とタイミングの妙を思う。
人との出会いも、ある音楽との出会いも、映画や本や、いろいろなモノやコトとの出会いも、その縁とタイミングを思うと不思議にも感じるし、必然にも感じるし、ただ有り難く感じたりもする。

仕事でも、日々ひとつひとつの仕事に真摯に取り組みつづけていれば、必然的に縁は連鎖していくであろう、と私は希望的に思っている。
音楽以外の仕事の事情はよく知らないが、たぶんどんな仕事でもそうなのではないか。

良い縁を求めて自分を積極的に売り込む「営業活動」が大切なときもあるかもしれないが、それよりも大切なことは、やはり自分自信を磨くことだと、何となく私は(自分が営業活動に無頓着であることの自身への言い訳を兼ねて)ずっと思っている。

己を磨くことに専心していれば、少しずつではあっても、あるタイミングでポンと世界が広がる機会がたまにやってくるものだ。

というようなことを、今日、新たな広がりを予感させる仕事の打ち合わせに行った帰りの電車の中で、ちょっと再確認するように思ったりした。

by りき哉

2008年10月 3日 (金)

奏でるトイピアノ〜慈しむべき音

キャットフードを買いに某ディスカウントショップへ行って、素敵なトイピアノを発見した。

電子式のおもちゃピアノが並んだ棚の横を通り過ぎる際に、床にちょこんと置かれていたそのピアノを息子が弾き(叩き)始めたのを聴いて、おっ、それはアコースティックじゃないか、どれどれ、ちょっとお父さんに貸して・・・と。

ハンマーで金属の(板状か棒状の)振動体を叩いて発音する、アコースティック・ピアノである。
昨今はおもちゃピアノも電子式が主流だから、なかなかこういうメカニカルな方式のものは見かけない。

私は、電子トイピアノには子供に与えるおもちゃとしても全く興味なく、むしろそういうものは子供の感性を育む上でも弊害があるのではないかとまで考えているのであるが、このようなメカニカル方式のトイピアノには、こんどは反対に「おもちゃ」を通り越して「楽器」として興味津々なのだ。

だから、たった今も、このトイピアノを息子に買ってやろうかと思って見ているのではなくて、自分の趣味として、あるいは仕事の道具になるものとして観察しているのである。
息子はウチにホンモノのRhodes Pianoもグランドピアノもあるのだから、それで遊べばよろしい。

どれどれ・・・、息子から取り上げて早速弾いてみると、ガムランをも彷彿させるチャイムのような、可愛らしいくも太く芯のある音がする。

なんと言っても、実際に楽器が空気を振動させて生みだす音の「実在感」は心地よい。
素朴だが、今この空間で確かに鳴っている、慈しむべき音。

ICチップに書き込まれたビットデータから電気的に作り出される音には、リアリティも奥行きも感じることはできない。
あらゆる楽器は、その楽器特有の声(音色)を持っており、それゆえ私たちはその音を慈しみ、その音に耳を傾ける。
しかし電子ピアノには、スピーカーが鳴るより以前に「音」は実在しない。

楽器を「弾く」と言うのでなく「奏でる」と言うとき、ひと際その音を大切に聴き取り、その音を愛撫するように慈しんでいる様子が暗黙に前提されていると思う。
「笛の音を奏でる」も「ギターを奏でる」も「トランペットを奏でる」も「ピアノを奏でる」も、ことばとして自然に成り立つ表現であるが、電子ピアノは「弾く」ことはできても、「電子ピアノを奏でる」という日本語は成立しない。(と思う。)

それは、奏でるべき音を、そもそも電子ピアノが持たないからである。
あるのはビットデータとそれを演算する論理回路、そして結果を増幅し再生するシステム。
ビットデータは奏でるものではなくて、読み出され再生されるものだ。
電子ピアノの鍵盤は単にデータを再生するための電気スイッチに過ぎない。

このトイピアノは、奏でるべき「声」を持っている。
身体(の動き)と楽器は一体となって空気をじかにふるわせる。
弾くと楽器の振動が鍵盤から指先に伝わってくる。
だから心も振動する。

そしてこのトイピアノは、しかも、ボディーはすべて木でできている!
合板だけど、木製品としてとてもしっかり作られているではないか。

木はいい。木にはぬくもり、あたたかさ、やさしさがある。
これがボディーがプラスチック製だったら、私もハナから興味を持たなかった。
やはり、プラスチック製のものばかりに囲まれていると、子供の感性を育む上で弊害があるような気がする。
幼少期こそ特に、土とか、木とか、自然のものに触れて育つことはとても大切なことだと思う。

尤も、今トイピアノを見ているのは子供のためではなかった。
ともかく大人も木の手触りには心安らぐし、それに楽器として、プラスチックと木では響きがまったく違う。

このピアノは、材の厚みもあり、ずっしり感があり、単なる飾り物としても成立するくらいの質感と存在感を持っている。
これくらい良くできていると、どうして鍵盤が木と象牙と黒檀でなくプラスチックであるのか唯一残念に思えてくるほどだが、そこは仕方がないか。

鍵盤のサイズがトイピアノにしてはけっこうあって、私の手でも弾きやすい。
と思ってよくよく(手で)測ってみたら、奥行きは小さいけど横幅は本物の鍵盤と同じ、フルサイズだった。
ピッチは甘いが、それも素朴な味わいだ。

それにしても、いったいどこのメーカーだろう。
ボディー前面にはエンブレム的にKIDDY KEYSと書いてあるけど。
アコースティック・トイピアノでは、私が知っている限りでは河合楽器のものがあるが、これはカワイ製ではない。

このピアノが置いてあった近くに、1980円と書いた値札が下がっている。
このせんきゅうひゃくはちじゅう円って、このピアノのことだろうか?
カワイのアコースティック・トイピアノはたしか、1万5千円くらいした記憶がある。
この作りでこの値段は信じがたく、店員さんに確認した。
間違いなく1980円だった。

私はモノにこだわる性分なので、いくら安くても自分が本当に気に入らなければ買うことはない。
反対に、自分が本当に気に入れば、どんなに高額なものでも金に糸目をつけずにポンと買う。
というような懐の大きさを(財布にも心にも)持ちたいと日々願っている。

さて、このトイピアノは、安いことは間違いない。安すぎる。値段から考えると、この作りの素晴らしさは驚嘆するばかりだ。気に入った。
しかし、だからといって買うという結論にはならない。
果たして、このトイピアノは私に必要だろうか。
問題はそこだ。
どれほど割安感があろうとも、無用のものを買うほど(財布も空間も)余裕はない。
今までそれが無くてやってきたのだから、きっと必要ではないに違いない。

しかし、人生には必要なものだけがあれば良いのだろうか。
無駄を排し、合理性ばかりを求める姿勢からは、余裕のある深い音楽は生まれてこないのではないか。
音楽には奥行きと幅が必要だ。遊びが大切である。
タンスの引出しの遊びとか、ハンドルの遊びとか、部品の結合の余裕のことを「遊び」というが、そういう余裕がないと音楽も窮屈でつまらなくなってしまう。
リズムにも遊び(拍と拍の結合に余裕)がないと、グルーブしない。

10分余りに渡る、このような深い洞察と思慮の末、買うことにした。
日頃、石橋を叩いても(まだ心配で)なかなか渡らない私としては異例の即断だったと言って良い。

しかし何せアコースティック楽器であるから、個体ごとにピッチ(の正確さ)も違うだろう。
ピッチが良いものを選ぶため、店員さんに在庫をすべて持ってきて欲しいと頼んだら、倉庫から2台持ってきてくれた。
合わせて3台を試奏し、けっきょく最初の店頭品を選んだ。

取説を読んで判明したことは、アメリカ(カリフォルニア)のメーカーであること。
部品(鍵盤アクション)が壊れたりしたときは、交換パーツが用意されていること。それは心強い。

また、心臓部である振動体の鉄ロッドは、おお!ドイツ製とのことだ。
三味線や尺八がドイツ製だと言われるとちょっと心配になるが、ピアノの部品がドイツ製だと言われると何だか安心感を覚えるものだ。
どうりで良い音がするわけだ、と納得する気分になってくる。

自宅のグランドピアノとL字に配置して一緒に弾いてみたりした。
うん、楽しい!使える!
音の存在感はグランドピアノに負けていない。

アクション部がどうなっているのか見たくて、天板を外してみた。
なるほど。外見はアップライトだが、アクションにバネは使われておらず、ハンマーの自重で元に戻る仕組みである点はグランドピアノに近い。
連打にもけっこう追従するし、タッチに対する音色変化も楽しめる。
とてもシンプルかつ洗練された機構に、刺激とちょっとした感銘を受けた。

ひょっとしたら、Rhodesと同じようにロッドにバネ等(おもり)をつけてピッチ調整ができるかもしれない。こんど試してみよう。
また、プラスチックのハンマーが打弦しているが、この部分も加工すれば自分オリジナルの音色を求める余地もありそうだ。
天板は4つの木ネジで固定されているのだが、これをグランドピアノみたいに開閉できるように改造しようかな。

なんだか、家具作り職人としていろいろとアイディアが浮かんできた。
在庫全部買ってきても良かったかな。

とても賢い買い物をした気がする。
ようこそ、ナマトピ(なまトイピアノ)くん。

Toy_piano1


Toy_piano2
天板と前面を外したところ。

Toy_piano3
アクション・ハンマーとドイツ製の鉄ロッド。
左の方2つ鍵盤を弾いているのでハンマーが上がっている。
背面には合板でなく木質圧縮ボードが使われている。

by りき哉

2008年7月17日 (木)

ピアノの潜在エネルギー

Piano_of_hocola_2

ピアノには200本以上の弦が張られていて、弦一本あたり90Kg以上の張力がかかっている。
だからピアノのフレームにかかる圧縮力は20トン以上にもなる。
20トンというと、乗用車20台分の重さだ。
ピアノを立てかけて、その上にクルマが20台積み重なっている図を想像してほしい。

もしもピアノの弦のすべてをいっぺんに切ってしまうと、その蓄えられた力が一気に開放され、鋳鉄でできたフレームが破壊し、近くの人が大けがをすることもあるそうである。

それだけのポテンシャル・エネルギーを、ピアノは静かに沈黙しているときも常に持っている。

ということを念頭に置いてみると、少しだけ厳かな気持ちを持ってピアノに向かうことができる。

・・ような気がする。

by りき哉

Piano_of_hocola_3


Piano_of_hocola_1

(写真は自宅のMY PIANOです)

2008年6月25日 (水)

順応する力

クルマの側面に文字を書く場合に、クルマの前から後ろに向かって書く、という慣習がある。
その場合、クルマの左サイドはいいのだが、右サイドだと文字列は右から左に向かうことになる。
私が自分のクルマに宣伝を書くとしたら、右サイドは
「哉力村中 トスニアピ」
というふうになる。
(「たけやぶやけた」みたいな回文なら良いのにね・・。)

文字列が通常と反対向きに書かれているためにすぐに読めない、ということはよくあることだ。
そういう時はすぐに、「あ、クルマの前がこっちだからこっちから読むんだ」というふうに理解して、苦労しながら右から左に読む。
そう。そういう時は「苦労」するのである。

ところが、今日はそれと反対の体験をした。

今こうして書いたり読んだりする通常の文章と同じように、ちゃんと左から右へ向かって書かれた文字列を、とっさに右から左へ読んでしまった。
私が見たのがクルマの右サイドだったので、無意識に、クルマの前から後ろに向かって読んでしまったのである。

読んでみてから意味が不明なので自分のまちがいに気づいた訳だが、気づいたあとも、普通に(左から右へ)読むことに強い違和感を持ってしまい、
「あれ、文章って本当はどっちから読むんだっけ?」
というように頭がコンガラガってしまったのだ。
ごく普通に読むことに苦労を要したのである。

これは驚くべきことだった。
それほどまでに私は、「クルマに書かれた文字はクルマの前方から読む」という慣習に毒されていた、ということである。

それとも、これは「人間が持っている認識適応力の高さ」に感嘆するべきことなのだろうか。
その慣習に長らく接している間にいつの間にかそれに適応していた、ということである。

慣習に毒されていると見るか、認識適応力が高いと見るか、ということは同じ事柄をマイナス思考で捉えるかプラス思考で捉えるかの違いかもしれない。

音楽で言えば、たとえば12音平均律について。
この音律は、物理的にはオクターブ以外の音程はすべて厳密にいうと協和していない。
それでもいろいろな点で「便利」だから、数学的に作り出されて、いまの私たちの世界では「標準」になっているのである。

多くの人は音律の物理的なことや数学的なことは知らずに、それでもこの音律に違和感を持つことなく音楽を聴いているだろう。
私も、12音平均律で調律された(つまり普通の)ピアノの響きに、無限の美しさを感じる。

これは果たして、我々はこの音律の慣習に毒されている、と見るべきなのか。
それとも、我々のそのような認識(音を感じる)適応力の高さ(柔軟性と言ってもよい)を評価するべきなのか。

似たようなことで思い出したことがある。
鏡像の認識の仕方についてのエピソードだ。

けど長くなるので、話をまとめないまま、続きはまた今度。
(「今度」は次回とは限りません。いつかな。)

by りき哉


2008年6月 2日 (月)

音楽を深く感じるために

いっさい何も決めずに、心を静めて、まず最初の音を出す。
「最初の音」は、単音でも良いし、和音(重音)でも、旋律でも、リズム(の断片)でも良い。

但し、これから始まる音楽について、何も予定しないように注意しなくてはいけない。
最初の音を弾く瞬間まで調性(キー)も決めないし、そもそも調性があるかないかも決めない。
音楽に抑揚や変化を持たせるか(例えば最初は静かに始めてだんだん盛り上げていくとか)、そういう「話の流れ」みたいなことも予定しない。
風景なり感情なり、何かを表現しようという目標も持たない。

これから一体どんな音楽が生まれるのか自分自身でもまったく未知である、という白紙状態で始めるのである。
唯一のルールは、音楽として始まりと終わりがある、ということ。
いつの間にか始まって何となく終わるのではなくて、始まりの瞬間と終わりの瞬間を「明確に」持つ、ということ。

そう思って、さあいざピアノを弾こうとすると、最初の音をどうするかという葛藤がまず生まれる。
鍵盤は88ある。組み合わせを考えれば、選択肢は無限にある。
組み合わせを考えずに最初は単音と限定してみても、その一音を弾く強さ(音色)の可能性はやはり無限にある。
さて、何を弾こうか。

でもとにかく、まず静寂に耳を澄まし、ある瞬間にフッと決断して手を鍵盤に下ろしてみるのだ。
そして放たれた響きに耳を澄まし、次に弾くべき音、あるいは取るべき間を感じとれたら、それを続けていく。
大切なことは、雑念を持たずに意識を音楽の奥深くに集中することだけである。

身に染みついている音楽理論や慣習にとらわれたり、ましてやそれに頼ったりしようとすると、たちまち真の音楽に対する集中力は途絶え、明確な終わりの瞬間まで音楽を続けることは決してできない。
ちょっと油断すると、左手が何かのコードを安易に押さえてしまったりして、そうするともうその一瞬で自分の気持ちが萎えてしまうのだ。
音楽がそれまでの必然的なエネルギーの流れを失ってしまったことを、自分が明確に感じとるからである。
(まるで、素直な心を持っている間は魔法が使えたのに、傲慢な心を持った途端にその力を失ってしまった、というおとぎ話みたいだ。)
常にその瞬間瞬間に耳を澄まし、何にもとらわれることなく自分をオープンに保つことができれば、やがて終わるべき瞬間を、まさにその瞬間に感じとることができる。

いわゆる「フリー・ジャズ」のイメージとは、たぶん少し違うだろう。
「フリー」というカテゴリーが示す多くの音楽も、言ってみれば一つの方法論であり、一つのコンセプトだ。
既知のフォームなりメロディーなり、あるいは何らかの概念から離れようとすることは、それはそれで一つのベクトルを持つことになる。

いまここでやろうとしていることは、その刹那刹那に耳を澄ます、ということであって、それだけである。
だから、最初にある種のベクトルを設定することもしない。
結果として音楽が、ありふれた平凡なもの(例えばごく普通のコード進行を持ったポップスのようなもの)になっても構わない。
何か新しい視点を獲得したものであったり、既成概念に異を唱えたりするものである必要は何もない。
それに、技術的に高度なものである必要もない。
あとからそれを譜面に起こしてみたらまるで楽器の初心者でも弾けるような、簡単でシンプルな音楽になっても良い。
きたない音楽になっても良いし、美しい音楽になっても良い。

自分がその瞬間を深く感じとって、それに従ってリアルタイムに完結させた音楽であれば、そういう自覚に確信が持てれば、結果はすべて受け入れる。

というような考えのもとにやってみたソロ・パフォーマンスの録音がこれである。

Free Improvisation Rikisac080527 #1~#5

2008年5月27日 東京 Hocola studio における録音。
piano 中村力哉

ファイルは一つだが、この中に5テイクのインプロビゼーションが含まれている。
この5テイクはほんの20分ほどの間に立て続けに弾いた録音なので、全体としてひとつの共通するムードみたいなものが感じられる、ように思う。
ピアノの調律は大分バランス悪いが、それも含んだ上での自由即興演奏である。

日頃、私の仕事フィールドでは「即興で完全に無制約で音楽をクリエイトする」ということは基本的にはない。
「アドリブ」と言っても、かならず何かしらの制約、言い換えれば「沿うべきガイドライン」がある。
テンポとかコード進行など音楽の構造上の制約・ガイドラインもあるし、TPO上の制約(たとえばホテルのラウンジで演奏する場合の求められる節度とか)がある場合もある。(ラウンジのソロピアノで肘打ちする時は極めてソフトに美しく響かせ、お客さまがびっくりしないよう心がけている。)
私が参加しているバンドのひとつ「BANDO-BAND」のライブでは、アストル・ピアソラの「ロコへのバラード」を演奏する際、そのイントロでピアノのフリーソロを任せられる。
しかしそこでは「暑い炎天下のブエノスアイレスの町中、頭にメロンの皮をかぶった気の狂った男がフラフラと歩いてくる様子」を描写するというガイドラインがあるし、そのフリーソロの終わりはイ短調で3拍子を提示してテーマへの導入を果たす、ということが予定されている。(でもそれ以外にはフリーなので、極めて高い集中力とモチベーションを必要とする。)

ガイドラインに沿うことは「それに如何に沿うか、どう美しく沿うか(または如何に外れるか)」という難しさ、奥深さがあるが、道や方角が示されているという点では安心感があり、ラクチンだという面がある。
それは裏を返せば、例えばコード進行やリズムをはじめとする何らかの制約・ガイドライン・手がかりがある音楽は、それに上手に沿うことができただけで一定の達成感を得てしまい、真に耳を澄ましていなくてもそれなりに形になってしまう危険性を孕んでいる、ということでもある。
小手先だけの音楽にならないように日々気をつけなくてはいけない。
(・・と自分を戒めているのである。)

完全に自由なインプロビゼーションでは、本当に意識が研ぎ澄まされていないとまったく形にすることができない。
集中せず意識が高まっていない状態でテキトーに自由にやろうとしても、それこそすぐにバカバカしくてそれを続けられなくなってしまうだろう。それは自分の出した音に何の必然性も感じられないからである。
「自由に」と言っても、「何でもアリで、テキトーにやればいい」というのではない。正反対である。
一切の制約も目的も設けずに、自分自身のアンテナをフル稼働してその空間と瞬間をキャッチしながら、あくまでも自然体でその入力に瞬時に反応していくというプロセスは、簡単なようで意外と難しい。

だから、こういうこと(無制約の即興演奏)を試してみることは、私にとって意味のある訓練になる。
実際、これを毎日いつでもパッとできるかというと、意外となかなかできないものである。
その証拠に、ここにアップした録音は数日前のものであるが、今日またやろうとしても、どうしても集中力が高まらず何もクリエイトできなかった・・。
そしてそれは、べつにぜんぜん珍しいことではない。
ひとえに、私に精神修行が足りない故であろう。
ともかく、あせらず、マイペースで精進すべし、と。

そういうわけで、録音はその時の一期一会のパフォーマンスとして日記に残しておく。
パフォーマンスのクオリティはともかくとして、本当に白紙状態から一瞬先は未知という状態で弾いているので、録音を聞き返してみると自分でも「ほほう、そう来たか、面白いね」というふうに他人事のように聴けて、けっこう楽しめる。

ところで、つい先日のログ(新郎当てクイズのピアニスト版)では「テキトーに構えることの大切さ」について考察したばかりだが、たぶん、大局においてはテキトーに、細部すなわち一瞬一瞬のできごとには極限まで意識を研ぎすます、という姿勢が大切なのではないか。
と、今思った。

by りき哉

2008年5月 5日 (月)

「人差し指」について

日本語において、手の指のそれぞれは、何と呼ぶのが正式なのだろうか?

親指、人差し指、中指、薬指、小指。

一般的には、この呼び方が恐らく最もよく使われている呼称だと思う。(これが標準語なのかしらん?)

しかし私はこの中の「人差し指」という言葉には、かねがね大きな不満を感じている。

人差し指で実際に人を指差すという行為は、控えめに言っても決して穏和な態度ではない。
指し示す先が自分の話し相手である場合には、それは大変に威圧的な態度となる。よほど上から見下した視線であるか、あるいは怒りを表していることになるだろう。

指し示す先が第三者である場合には、「ほら、あの人・・・」と陰口を叩いていることになる。
実際には陰口でなくても、その光景を他人が見たらそう思うかもしれないし、指し示された当事者がそれに気づいた場合には、やはりいい気分はしない。
「後ろ指を指される」という言葉は陰で悪口を言われることであり、この時に使う指は「人差し指」である。

学校の先生が教室で生徒を指すときは上下関係があるのだから人差し指を使っても良いだろうが、大人の社会ではふつう、人差し指で人を指差すことはない。
というか、人差し指で人を指差すことは礼儀に反するので、通常のコミュニケーションに於いてはやってはいけないのである。

世界の中には、それが別に無礼にならないとか、逆にそれが敬意を表す、というような文化を持つ地域・民族もあるかもしれないが、今ここでは「人差し指」という日本語を問題にしているので、そういう指摘は無用である。
現在の日本の文化に於いては、人差し指で人を指差すのは無礼な仕草である。

このように、実際には人を指す時に使わない指を、いやそれどころか、そのように使ってはいけない指を「人差し指」と呼ぶことには、多いに疑問を抱くのである。

2歳4ヶ月になって日ごとに言葉を獲得しつつある息子に、この指の名前を説明するのに、何と説明したらよいのだろうか。
「人を指し示すのに使うから人差し指っていうんだよ。だけどそうやって人を指差しちゃだめだよ」では納得できないだろう。

ついでに言えば、不満はまだある。
だいたい、親指、人差し指、中指、薬指、小指というネーミングは全く合理性に欠けている。

「親指」と「小指」は、指の形状(大きさ)を比喩したものであろう。
「中指」は、手の中に於けるその位置を表している。
「人差し指」と「薬指」は、その指の用途を表している。

命名の基準がバラバラなのだ。

幼児語では、お父さん指、お母さん指、お兄さん指、お姉さん指、赤ちゃん指、という呼称がポピュラーだと思うが、これは全ての指を家族のメンバーに見立てたネーミングであり、命名の基準に一貫性があって気持ちよい。

ちなみにピアノのレッスンに於いては(上と同じ順番で)1の指、2の指、3の指、4の指、5の指、と番号で呼ぶ慣例になっている。これは便宜的に番号をつけただけだからもちろん不合理なことはないのだが、名前としては味も素っ気もない。

しかしまあ、ネーミングの不合理性については大目に見よう。
いまここで不平を述べたいことの中心ではない。
合理的でない事柄は日常たくさんある。

別次元で問題にしなければいけないのは、「人差し指」である。
日本語として、私たちは「人差し指」に代わる、何か新しい呼称をこの指につけるべきではないのか。

「食指」というのは音読みだし、冒頭に挙げた他の指の名称とはセットにできない。
「示指」というのもあるようだが、これも音読みで「じし」とのことだ。
これを訓読みにして「しめしゆび」とでもしたらどうだろうか。
他の呼び方でもよい。方言にももっと良いものがあるかもしれない。

息子には当面,上述の幼児語で対処しておこうか。問題の先送りだけど。

このことにみんな何の疑問も不満もないのか、私は多いに疑問で不満なのである。

by りき哉


2008年3月18日 (火)

強い音楽と弱い音楽

強い弱いというのは、ここではその音楽の環境適応力についてである。

どんな環境でも成り立つ音楽がここで言う「強い音楽」。
対して演奏される環境をシビアに選ぶ、状況次第では成り立たない音楽が「弱い音楽」。

状況というのはあらゆる場面が想定できるわけだけど、取り敢えずピアノで演奏する音楽に限って話を進めよう。
ピアニストの立場で頻繁に直面する問題は、ピアノの調律の問題である。
仕事に行った先で弾く楽器はいつも調律の行き届いたスタンウェイのフルコンばかりではない。(そういうことは私の場合むしろ少ない。)

調律の善し悪しは程度問題だが、ひどい場合には、もう一音もピアノは弾かない方が良い音楽になる、というような状況もある。
もっとひどいと、もう私の唄の方がマシかもしれないと思えるほどの時もある。

さて、そのような劣悪な調律状態でも成り立つ音楽は、環境適応力に於いて「強い」と感じるのだ。
例えばブルースの様な音楽は、ホンキートンク・ピアノでも成り立つ。それどころかその方が良い味になったりすることもあるくらいだ。
エリントンの「SATIN DOLL」や「IN A MELLOW TONE」のような曲も、少々調律が狂っていても、それも味として吸収しながら成り立ってしまう曲たちだ。

しかし、ジャズスタンダードで言えば、「BLUE IN GREEN」とか「NAIMA」のような曲は、調律の狂ったピアノで演奏してもその曲にはならない。
こういった曲は、和音が美しく響く状況を必須条件として成り立っている。
そういう意味で、ハンコックの「MAIDEN VOYAGE」,「DOLPHIN DANCE」なども同類であろう。
ミシェル・ルグランの「YOU MUST BELIEVE IN SPRING」のような、和声の進行が複雑で美しい曲も、やはり良く調律された状態を前提にしていると言って良い。
こういった楽曲たちは、それが成り立つ調律環境をシビアに選ぶという点で、「弱い音楽」である。

誤解されたくないのだが、私はそういう音楽を「弱い」と言ってけなしているのではない。
私はどちらかというと、ここで言う「弱い音楽」を好み、愛おしんでいる。

調律という環境において弱い音楽は、つまりメロディが常にコードのテンション・ノートに相当している曲とか和声進行が複雑な曲などである、と大まかに言えそうであるが、しかしそれだけで片付けられない。
ビリー・ストレイホーンの「SOPHISTICATED LADY」などは、メロディがコード・テンションで、かつコード進行も複雑な美しい曲なのに、調律の狂ったピアノでもそれはそれとして成り立ってしまう「強さ」を持っている。セロニアス・モンクの楽曲も同様だ。誠に不思議である。

作曲された時代から受ける、曲に対する先入観のせいだろうか。
先入観を捨てれば、「BLUE IN GREEN」もホンキートンク・ピアノで成り立つのだろうか。
否、主観ばかりではないであろう。調律の善し悪し(ハーモニーの響き)に依存する度合いは、曲によっていろいろある。
調律に強く依存する曲というのはすなわち、その響き自体がその曲の本質であるということである。その響きこそがその曲の同一性(アイデンティティ)なのだ。
そしてそのことは、調律の狂った世界では生きられないという、環境適応力の低さと直接繋がってくる。

もちろん、強い音楽と弱い音楽の間に明確な境界線があるわけではなく、そこには広範な中間層がある。
また、「SOPHISTICATED LADY」がホンキートンクでも成り立つと言っても、やはり美しい調律で演奏された場合とでは全く違ったものになるし、そういう特殊な効果を狙うのでなければ、美しく響く方が心にも響く音楽になる、ということは言うまでもない。

ここまで「楽曲」という切り口で述べてきたが、「演奏」についても同様のことが言える。
つまり、調律が悪くても成り立つ演奏の仕方と、調律が良くないと成り立たない演奏の仕方がある。
調律環境に対して高い免疫性を持つ楽曲であっても、それをホンキートンクで成り立たせるためには、そのように演奏をアプローチする必要がある、ということである。

本当はそんな低レベルなところに意識を奪われたくないのだが、どんな現場でも与えられた環境の中で誠意を持ってベストを尽くしたいと思うので、こういうことを何となく考えてしまうことが時々あるのだ。

by りき哉


----------------------------------------------------

2007年12月 5日 (水)

ピアノに搭載してっ!

「チューニング不要の新ギター」というニュースを読んだ。
ギターに半導体やモーターを内蔵し、ペグを機械制御して2秒間でチューニングするそうな。
設定すれば基本の調弦だけでなく変則チューニングもできるらしい!
ギブソンによる「世界初搭載」だそうである。

いいなぁ、それ、ピアノに搭載してっ!
ギブソンとスタンウェイの提携でやってくれないかな。
ヤマハならやってくれそうだね。

ギターは弦6本だし、本来自分で調弦するものなのだから、ピアノにこそ搭載してほしい。
ピアノの弦は200本以上ある。

仕事先のピアノの調律が狂っていて閉口することは茶飯事である。
調律が悪いと自分のイメージする響きには程遠いものになるから、演奏の幅はすごく狭められてしまうのだ。
それに、平均律だけでなく、技術的には純正調とか中全音律とかいろいろの音律にもパッとできるんでしょ?
ピッチも441からパッと442Hzにしたり。
デジタル楽器では当たり前の機能だけど、ナマ楽器で実現すると便利だよなぁ。


・・・でもどれくらいの精度なのかな。

それに、平均率でピアノを調律していく場合、倍音の問題が難しいかも。
中音域はいいとしても、低域と高域は倍音をどう取っていくかでセンスが出るから、やはりピアノの場合は調律師の職人技に頼るしかない気もする。
でもそれもフーリエ解析とかの応用でクリアできる問題なのかな?
よく解らないけど。

ま、とにかくテクノロジーの進歩や応用と楽器や音楽の発展は太古から密接に関係し続けているのだ。
この自動チューニング機構はいろんな弦楽器に流行るのだろうか?

ウチの息子(もうすぐ2歳)が大人になる頃は
「えっ?昔はみんな自分でチューニングしてたの?どうやって?」
なんてことになるかも知れないなぁ。

by りき哉

----------------------------------------------------

2007年11月28日 (水)

演奏において

演奏において、
イメージを持つことは大切だけど、
イメージを持たないことも大切だ。
心を平静に、余念なく、既知のイメージにとらわれることなく。
広く見渡して、その一瞬に耳を澄ます。
本当に耳を澄ますことは、それはすなわち自分を開くことだ。
あらゆる方向に。
そうすれば、抽象的なゆるやかなイメージを持ちながら、
そこからも自由に離れてゆくことができるだろう。

by りき哉

----------------------------------------------------