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2016年2月 7日 (日)

子どもの言葉の軌跡(お父さん日記・2008-2009)

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(2009年のお父さん日記より、記録として)


 
● Episode 1

「おとおさん、ぴなおひいて」

「ぴなおじゃなくて、ピアノだよ」

「ぴなお?」

「ううん、違う。ピアノ。『ピ』」

「ぴっ」

「ア」

「あっ」

「ノ」

「のっ」

「そう! ピ・ア・ノ」

「ぴ・な・お!」

「アハハ、どうしてもぴなおになっちゃうね~」

ケラケラケラ。


・・というやり取りをしていたのは、彼が2歳半くらいの頃だったろうか。

その後、「ピアノ」が言えるようになってからもラ行の発音は難しいようで、長いことラ行はほぼア行に(例:クラリネットは「くあいねっと」に)なっていたが、3歳半になった今ではそれもハッキリと発音している。

初めて耳にする言葉も瞬時に音を正しく聞き分け、すぐにその場で習得してゆく様子は頼もしくもある一方、一音節ずつ間違えないように慎重に発話しようとする姿はとても健気だ。


 
● Episode 2

発音の習得とは別の、論理を獲得している様子に微笑んだことも多い。

2歳7ヶ月の頃、朝食の支度をしている母親に彼が尋ねた。


「おかあさん、ばななよーぐうと つくってるの?」

「ううん。バナナはないの。ただのヨーグルト」

「ただのよーぐうと?」

「そう」

「ただはいってうの? (タダ入ってるの?)」


彼は「リンゴのヨーグルト」にはリンゴが、「バナナのヨーグルト」にはバナナが入っていることを知っている。「ただのヨーグルト」にはタダが入っていると推測するのは尤もなことだ。
極めて妥当な推論に、ちょっと感心したのだった。

こうして子どもは経験と知識と推論をたくましく駆使し、言葉の世界をぐんぐん広げてゆくのだなあ。

「タダは入ってないよ」と言われた彼は、それではタダとは何だろうと神妙な顔つきで考え込んでいたのだが、いつの間にか(少なくとも半年後には)正しく(そして得意顔で)「只の」を使いこなすようになっていた。

「てにをは」、「〜から」(確定の順接)、「〜ても/でも」(仮定の逆接)、「〜だけ」(限定)といった助詞の使い方が完璧であることに感心したのも、ちょうどこの頃だったと思う。


 
● Episode 3

論理の獲得の元をたどると、彼が初めて複数の語句を繋げた文をしゃべったのは、それより半年ほど前、2歳2ヶ月のある日のことだった。


「おっきいたんたんのって、ぺんぎんみう!」

(訳:大きいガタンガタン(電車)に乗って、ペンギンを見る=見に行く)


水族館に向かう電車や駅構内で、そして水族館でランチを食べている時も、ペンギンを見て水族館を後にした帰路でも、彼はこの一文を何度も何度も繰り返ししゃべった。

もちろんその文は彼が独自に作り出したのでなく、親が語りかけた一言を真似て発したものだが、なにしろ昨日まで語句を単独で発するだけだった彼の、それが最初の文だった。

「おっきいたんたんのって、ぺんぎんみう!」

初っぱなから(単文でなく)複文である。(※)
しかも前節の目的語は修飾語を伴っている。

子どもの「言葉の宇宙のビッグバン」は、こうして起きるのか。


 
● Episode 4

「宇宙」の膨張の軌跡として、彼との会話をもう一つ採録しておく。
ビッグバンから3ヶ月後、先述の「ただのヨーグルト」より2ヶ月前のこと。

居間で仕事をしていた私に、彼がにこにこ顔で話しかけてきた。


(自分の手のひらを指しながら)
「これてのひら」

「そうだね。手のひら」

(自分の足の裏を指して)
「これあしのひら」

「あはは。そうだね。でも足はひらって言わないんだよ。足の裏」

「あしのうら?」

「そう」

「あしのうら!」


彼は「手のひら」を形態素(て+の+ひら)に分解し、「ひら」は「足」に応用できると帰納的に推論し、その大発見を父親に報告した。

その発見は(惜しくも)却下されたが、彼はそれを残念がることもなく、「あしのうら」という新たな知見を得て嬉々としていた。



 

トップの写真:
「言葉の宇宙のビッグバン」が起きた日(2008.2.19)


● 付録

2歳の誕生日を迎えた頃(初めて文をしゃべる日より2ヶ月前)の、彼の語彙を辞書にしたもの。 (当人としてはもっと多くの語句を使っていた可能性もあるが、親として把握していた語句はおよそ下記の通り。2007年12月26日作成)

【あお】青
【あっか】赤
【あつい】熱い、暑い
【あった】あった、いた
【あっち】あっち(方角を示す)
【い】自分のこと
【いたい】痛い
【うま】馬、またがること
【うみ】海
【おか・おかっか】お母さん
【おと・おとっと】お父さん
【か】かぼちゃ
【がたんたん】電車
【がったんがったん】シーソー
【き】木
【き】救急車
【ぎ】鍵
【きん】キリン
【く】靴、靴下
【くぇ】クレヨン
【クェー】クレーン車
【クォー】クロワッサン
【げ】ゲーナ(アニメのキャラクター)
【ご(ぼ)】ごはん
【こわい(くわい)】怖い
【し】CD
【じ・じいじ】おじいちゃん
【しい】美味しい
【しゅ】スヌーピー
【しゅっしゅっ】蒸気機関車(→ぽー)
【す(しゅ)】座る
【ぞう(どう)】象
【だっく(だっき)】抱っこ
【たっち】立っち
【ちっち】おしっこ
【ちゅ】飛行機、ヘリコプター(根拠不明)
【て】手
【な】魚
【な(ま)】:バナナ
【な】おなら
【ない】ない、いない
【にゅ】牛乳
【にゅう】うんち(根拠不明)
【ね】猫
【ねんね】寝る
【ば】バス
【ぱ】パトカー
【ぱ】葉っぱ
【ばぁ】おばあちゃん、いないいないばあ
【はい】はい(返事)
【ばいばい】さようなら、いってらっしゃい、あっちへ行け
【びぃび】チェブラーシカ(アニメのキャラクター)
【ぶ】ブランコ
【ぶうぶう】クルマ(乗用車)
【ぱん・ぱんぱん】パン、パン屋さん
【ぺん】ボールペン
【ほ】星、月、太陽
【ぼ】帽子
【ぼ】どろぼう
【ぼう・ぼー】消防車、ボール
【ぽー】蒸気機関車(→しゅっしゅっ)
【ほん】本
【ぽんぽん】お腹、お腹がすいた
【まんまん】アンパンマン、アンパンマンジュース
【みみ】耳
【め】目
【もーも】牛
【わんわん】犬



以上、言語学に関心を抱く契機となった岡本夏木著『子どもとことば』(岩波新書)へのオマージュを込めた観察記録として。


(※)
参考:[日本語教育](外部サイト)
   重文・複文

関連ログ:お父さんな日々(2008.4.5)
   「おっきいたんたんのって、しまんもしゃつかう」


【お父さん日記シリーズ】

お父さん日記・2011夏

お父さん日記・2011秋〜2012初春

お父さん日記・2012春〜師走

お父さん日記・2013

お父さん日記・2014

お父さん日記・2015春

ゲルマニウムラジオ作り/お父さん日記・2015夏休み特別編として

お父さん日記・2015夏〜師走



by りき哉


2015年11月30日 (月)

伝承と創出のあわいに(民謡のアレンジについて)

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(「ピアノで織りなす茨城県民謡 網のし唄」 26×34cm クレヨン)



新たなものを付加することによって失われるものもある。

そして、その失われるものこそが、それにとって本当に大切なものであるかもしれない。

日本の民謡をピアノの響きで包むことには、だから、常に大きな畏れがあります。


今回はその畏れについて、つまり「 ひと粒のちから:ピアノで織りなす東北民謡」(あわいびと)のアレンジについて、少し言葉にしておきたいと思います。




● 「ピアノで織りなす」の意味について

ひと粒のちからプロジェクトとしてYouTubeにアップした音楽のタイトルには、いずれも「ピアノで織りなす○○県民謡」と謳いました。

この「ピアノで織りなす」というキャッチフレーズですが、実はこれは「ピアノで奏でる」という意味ではありません。

では、どういう意味なのか。

メロディとハーモニーとリズムをもって「音楽の三要素」とする捉え方があります。その捉え方は、音楽における「無数にあるであろうモノサシの中のひとつ」に過ぎませんが、今日広く共有されているそのモノサシを当てるならば、日本の民謡は「ハーモニー(和声)という概念を持たない音楽」だと言えます。

その日本の民謡を、和声音楽の新たな響きに包むこと。
ひと粒のちからプロジェクトは、そこに音楽的な趣意を置いて始まりました。

つまり、ここで「ピアノ」は、必ずしもピアノのことではなく、「近代西洋音楽に生まれた(12平均律における)和声」の代名詞・象徴として使っています。

ピアノの代わりに(和声が表現できれば)他のどんな楽器で演奏しても成立するように、「和声音楽の世界像が日本の民謡を豊かに広げてゆく可能性」を求めて、その趣旨を「ピアノで織りなす」という言葉に込めました。



● 「その唄本来の姿を変えない」ということについて

音楽のアレンジには無数のベクトルがあり、たとえば「原曲を解体し、再構築していくアレンジ」も、音楽のとても意義深い営みだと思います。
一方、ひと粒のちからプロジェクトでは、民謡への和声付けの際に「その唄の本来の姿を大切にしたい」と考えています。

土地に根差して受け継がれてきた唄のかたちを、西洋音楽の美的観点によって変えてしまわない。

音楽から和声を取り外せば、その唄の古来の姿が立ち現れるように。

その上でその唄が新たに豊かに広がってゆくこと。
いつでも唄の原形を取り出せるかたちで、「日本各地の民のうた」と「(ピアノに象徴される)和声音楽の美」との両立を図りたい。
そして、両立したその「二つの世界のあわい(間)」に様々な交流が生まれたら。

そんなふうに願っています。




【参考】

・「その唄本来の姿を変えずに、ただ和声を付ける」ということの最たる例がこちらで試聴できます↓
 山形民謡とピアノ (2007/11/29)

・関連ログ:音楽の何に曲名をつけるのか


※ このテーマについてはまだまだ言葉足らずなので、追々、稿を重ねたいと思ってます。


● 追記(2015.12.08)

あわいびと Official Website オープンしました。
  awaibito.com



by りき哉

2015年8月 4日 (火)

音楽の何に曲名をつけるのか

(音楽考備忘録 vol.01)

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15歳の頃の自分との茶話

 〜1981年 夏〜



ところで君は音楽を聴くよね?

じゃあ、君の好きな曲を、何でもいいから一曲思い浮かべてみて。

思い浮かべた?
そしたら尋ねたいことがあるんだ。

その曲がその曲であるということはどのようにして言えるのだと思う?

え?質問の意味がわからない?

ええと、そうだな、たとえば、その曲はおそらく、
・ピアノで独奏したり
・オーケストラで演奏したり
・ロックバンドで演奏したり
・尺八と箏で演奏したり
・一人で歌ったり
と、まあ、いろんな形態で演奏することができるよね?

もしかしたら、中には「それは無理かも」と君が思う形態もあるかもしれないけれど、とにかくいろんな形態で演奏された「その曲」を想像できるだろう?

そうだとしたら、それら各々の音楽は「同一ではない」のに「その曲である」と君が判断するのはなぜか・・、という問いなんだけど。

もう少し質問を続けてもいいかな。

その曲はたとえば、
・和太鼓だけで演奏したり
・植木鉢2つだけで演奏したり
することは、できそう?

あるいは逆に、その曲はたとえば、
・和太鼓でなければ演奏できない
・コンピューターがなければ演奏不可能
というような、特定の何かを必須とする音楽だろうか?

え?「和太鼓だけで演奏できる曲なんてあるのか」だって?
もちろんあるよ。和太鼓組曲なんて、むしろピアノでの独奏が果たして可能なのかどうか。

要するに僕が訊きたいのは、「楽曲の同一性とは何か」ということなんだ。
二つの音楽を「同じ曲の別バージョンだ」と判断する場合と「別の曲だ」と判断する場合の境界をどう引いているのか、という問い。
何が同じなら「同じ曲だ」と思い、何が違ったら「別の曲だ」と思うのか。

学校の音楽の授業で、音楽の三要素というのを習っただろ?
メロディ、ハーモニー、リズムの三つ。

物事をどう切り分けるかは自由だから、この三要素に分けて音楽を捉えるのは、音楽の無数にある捉え方の中の一つに過ぎないけどね。
この三要素に分けることによって、音楽が見えてくる部分もあるし、逆にそれによって見落とされてしまうものもある。
たとえば音色という要素は、このモノサシからは切り捨てられているよね。

切り分け方は無数にあるわけだけど、いずれにしても、物事を何らかの要素に切り分けることは重要だよ。
なぜって、人間は現実世界を言葉で切り分けることによって様々な概念や想像する力を獲得したのだろうから。
現実を切り分けて捉えることができなければ、「現実に起きていないけれど可能性としてはあり得る世界」を想像することはできない。

もし音楽を要素に切り分けなければ、君は二つの音楽を「同じ曲の別バージョン」と認識することはできなくなる。
君が、初めて聴く音楽に「これはあの曲だ」という認識を持つことがあるのならば、それは音楽を要素に切り分けて捉えているからに他ならない。

ある音楽に曲名が付いている時、その音楽の何に対して曲名が与えられているのか。

そう。君がとっくに察している通り、多くの場合はメロディに対して曲名が与えられているわけだけよね。
ジャズでもロックでもJ-POPでも、つまりポピュラー・ミュージック周辺においては、音楽の要素のうちリズムでもハーモニーでもなく、メロディに対して曲名が与えられている。
だから、リズムが違っても、ハーモニーが違っても、楽器編成が違っても、テンポが違っても、メロディが同じなら「同じ曲」とされる。
逆に、メロディが違っていれば、その他の要素がすべて同じでも「違う曲」とされる。

これを「旋律至上主義」と呼ぶんだ。
まあ、僕が勝手に呼んでいるだけだけどね。

でも、世の中のすべての音楽がメロディに対して曲名を与えられるわけではない。
さっき言った和太鼓の曲の場合なら、リズムとその構成に対して曲名がついている。

音色の変化に曲名をつけてもいいし、広い宇宙の中には、メロディがあるにも関わらず「音の強弱の組み合わせ」に対して曲名をつけている星があるかもしれない。

ジョン・ケージの『4分33秒』という曲を知ってるよね?
これは、「約4分半の間、演奏家は何もせず、ただその間に聞こえた(たとえば客席の誰かの咳払いや、椅子の軋みとかの)音すべてを音楽として受け入れる」というコンセプトの曲なんだけど、つまり、メロディに曲名をつけたのではなく、音色やリズムなど何らかの音楽要素に着目して曲名をつけたのでもなく、音楽を生み出す(というより認識する)そのルールに曲名をつけた、ということなんだよね。

こうやって少し見渡しただけで解ることは、要するに、「何を以てその曲と看做すのか」は文化や文脈に依存して多様だということ。


さて、前置きはこれくらいにして、そろそろ本題に入ろうか。

え?「まだ前置きだったのか」って?

ええと、この話は「作曲と編曲のあいだ」というテーマに繋がるんだけど、それじゃ、続きはまた今度にしようか。

え?「結局のところ『音楽のどこに焦点を置くか、その価値観は人それぞれだ』という当たり前の話とどう違うのか」って?

まあ、煎じ詰めればそういうことなんだけどさ、もう少し丁寧に切り分けて一度言葉にしておきたいんだよ。
適当にかき混ぜているうちに、もしかしたら新たな知見が生まれるかもしれないだろ?

一般的に、僕たちはメロディに曲名がついていることを当たり前だと思っている。

メロディに曲名をつけたことによって、いったい僕たちは何を得て、何を失っているのだろうか。


     つづく(かも)


photo:
PENTAX LX+planar50/1.4+PRESTO400 (self development)


by りき哉

関連ログ:伝承と創出のあわいに(民謡のアレンジについて)



2015年7月19日 (日)

たわいない呟き2014〜

たわいない呟き2013の続編です。

日々の呟き(2014年1月から2015年3月まで)の中から、備忘録として。


【2014.1.9】
無ければ無いで別の道が開けるであろうけどあった方が断然いいもの。あった方が断然いいけど無ければ無いで別の道が開けるであろうもの。どちら側から捉えるのか。家を出てから忘れ物に気付き、取りに戻っても間に合うかどうかの瀬戸際に立った時に、生き方が問われる(ことがある)。


【2014.1.18】
「(道の)むこっかた」という言葉はあまりにも普通に無意識に使ってたから、「あ、リッキーも『むこっかた』って言う?」と友人から訊かれても何を訊かれたのか直ぐに理解できなかった。以前に「『かた』って何?」と奥さんに訊かれたとのこと。・・あ、方言なの?これ。・・むこっかた、むこっかた・・。

承前。「かた」は「方」の意に決まってるじゃないか、と咄嗟に思ったのだけど、よく考えたらそれは違うような。「側(がわ)」が訛ったもの?「むこ(う)っかた」も「むこ(う)っかわ」も普通に言うけど「むこっかし」は自分の口からは出てこないな。(参考:むこっかた


【2014.1.19】
対象を鋭く厳しく見極めることと、柔軟に大らかに捉えることは、どちらも大切。しかし前者については「審美眼が研ぎ澄まされているのか、あるいは単に枝葉末節を気にし過ぎなのか」に悩み、後者については「大局観に立っているのか、単に観察が雑なのか」に悩む。(この右往左往は一生続くのだろうか)


【2014.1.24】
宇宙人と出会い、彼の星のAという曲とBという曲を教わる。確認のためAのメロディを私が弾いて「これは何と言う曲ですか」と訊くと彼は「Aだ」と答え、今度はBのメロディを弾いて曲名を訊くと「それもAだ」と答える。そこで再びAのメロディを弾いて曲名を訊くと今度は「Bだ」と言う。

彼にAとBを何度も演奏してもらったり、キーを変えてみたり、質問の仕方をあれこれ試しても、彼の答えに一貫性がまるで見えない。一体どういうことなのか、こちらは混乱を極める。

言葉を尽くし、散々やりとりをして判明したことは、彼の星ではメロディに曲名が付いているのではなく、音の強弱の組み合わせに(音の高低の時間的変化とは無関係に)曲名が付いていたのだった。・・という、例えばそういうようなこと、つまり、概念(この場合は「曲」の概念)がお互いに違っていてびっくり・・というような出来事が、今日ありました。

そういうわけで、異なる文化を相互に理解することの困難性と重要性を深く再認識した次第です(が、今の喩え話が今日の出来事をそれなりに正しく表現できているのか、私はまだ暫く悩まないといけません。というか、もっと自分の中で明確にしたい)。(一先ず了)


【2014.1.29】
これを許容して良いのか。と、ある一点について悩み始めると、今まで気にならなかった他のあちこちも気になり始めて、至近で凝視したり、深呼吸して俯瞰したり、お茶を飲んだり、部屋を歩き回ったりするのだが、さっきまで見えていた風景が急に色褪せて記憶の下層へ沈んでいくよう。


【2014.5.5】
それは弱さなのか、柔らかさなのか。


【2014.6.1】
行きつけのラーメン屋さんの壁に並んでいる芸能人のサイン色紙を眺めていたら、ある色紙の中に「おいしくてあたりまえ!!」という一文が添えられていて、その一言の解釈に悩んだ。店を叱咤しているのか、戒めているのか、それとも賞賛しているのか?あるいは個人的な信条を語っただけなのか。

前後の文脈が何もない中に突如としてただ「おいしくてあたりまえ!」とだけ放つ言葉が他者に与え得る意味や印象の幅に、このサインをした人は無自覚過ぎなんじゃないだろうか、ということを考えながら食べるラーメンの味はいつもより少し煮干しの風味が薄い感じがした。今日も夏日。


【2014.7.5】
自信に満ちた力強い言葉でなく、立ち止まって迷いながらそっと足を踏み出そうとする友人の姿に心動かされ、勇気づけられることってありますね。


【2014.7.27】
我が子を、家族を、友人を、思う心に「国境」はないと思う。音楽が人類に対して持ち得ている意味にも。


【2014.12.11】
一つ一つの小さな変化に気を留めることなく、何となく今までの日常がこれからも続いていくだろうと思っているうちに、気付いたときには取り返しがつかなくなっている・・ということって多いよな。無形の大切なものを失うときは、大抵そうだ。
(尤も、いま起こっている変化が「小さい」とも「ゆっくり」とも決して思わないけれど。楽観的で暢気で間抜けなこの私でも気付けたくらいなのだから)


【2015.1.31】
緑道の植え込みにはまだ雪が薄く残っていて、冷たい空気が気持ち良くて、年が明けてからのこのひと月を振り返りながら空に携帯カメラを向けていたら、いつの間にか足元に寄ってきていた猫にニャーって話しかけられた。

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【2015.3.1】
形式化することで残すことができる。一方、それにより失われるものがある。形式化を捨象と捉えるか、抽象と捉えるか。
形式主義に陥らず、形式を畏怖する。抽象されたものを見つめ、捨象されたものを想像する。


【2015.3.8】
「観察」とは対象の実態を知るために注意深く見ること、と辞書にある。人が主に視覚によって対象を知ろうとすることを「観察」というのであれば、同様の聴覚バージョンの言葉が欲しいのだが、何かないだろうか。対象を深く知るために注意深く聴くことを「観察」とは言わないように思う。

承前。未知の音楽をそのリズムや音律などの構造から文化的な文脈も含めて分析的に聴く行為は、「鑑賞」とは全く違う。かといって「研究」「分析」「解剖」といった言葉では「聴く」という行為にスポットを当てることができない。聴くという行為に焦点を当てた上で分析することを意味する熟語が欲しい。

(補記。「観察」との対応で思いつく「聴察」という言葉は、仏教では「聴いて心に察し知ること」の意味としてあるようだが、その定義では一般的な意味での「観察」と対応が成立しておらず、私が欲しい言葉とは違う。「観察」は「観て知ること」でなく「知るために観ること」だから)




by りき哉 @rikiyanopi

2015年7月 1日 (水)

無形のもの

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一つ一つの小さな変化に気を留めることなく、何となく今までの日常がこれからも続いていくだろうと思っているうちに、気付いたときには取り返しがつかなくなっている・・ということは多い。

無形の大切なものを失うときは、大抵そうだ。

(2014.12.11)

photo:
PENTAX LX+planar50/1.4+400TMAX(self development)


一つの音が空間に滲み融けてゆく。
その消え入る瞬間に耳を澄ます。

無形の大切なものを見失わないように。





関連ログ:
「今日は雨だからコーヒーには味噌を入れましょう」と言われたら



by りき哉


2015年5月 9日 (土)

「今日は雨だからコーヒーには味噌を入れましょう」と言われたら

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もしも、晴れた日に「今日は雨だからコーヒーには味噌を入れましょう」と家人から言われたら、どうすれば良いだろうか。


「いや、今日は晴れている」
 と言えばよいのか、

「天気が雨であることがどうしてコーヒーに味噌を入れる理由となるのか」
 と訊くのか、

「味噌入りコーヒーは異常だ」
 と諭すのか。

私はコーヒーに味噌を入れたことはないが、実際に試すまでもないだろう。
そもそもそれは「コーヒー」とは言えず、どちらかと言えば「味噌汁」と呼ぶべきものになる可能性も充分にある。


つまり家人の主張は、前提と、論理と、結論の、すべてがおかしい。(※1)

しかも、いずれを指摘されてもただ「雨が降っているからコーヒーに味噌を入れる必要がある」と持論を繰り返すばかりで、それが家人にとっては「丁寧に説明する」ということであるらしい。(※2)

・・・

近頃、こうした弁舌が日常に溢れていることに驚いている。


そしてマスメディアはこれを、「あなたはコーヒーに調味料を入れることに賛成ですか?」という問いにしてしまう。(※3)


このコミュニケーションの不調を前にして、どう応じればよいのだろうか。


photo:
PENTAX LX+planar50/1.4+PRESTO400 (self development)


・・・という次第なので、この「コーヒー」とは何かについて、多くの人とシェアしたいと私が思うリンクを二つだけ紹介します。


憲法って、何だろう?(解説版)

↑奈良弁護士会による、絵本「憲法って、何だろう?」の解説。なんて平易で丁寧な語り口でしょう。「丁寧に説明する」とは、正にこういうことではないでしょうか。


そもそも憲法がわからない:立憲主義と自民党憲法案

↑『静かに「政治」の話を続けよう』(亜紀書房)より、著者の岡田憲治氏が一章分をまるまるweb公開されています。ウィットに富んだ名調子に、思わず引き込まれます。




蛇足ながら・・
パロディを解説(してしまっては何のためにパロディ化したのか分からなくなりますが)しておきます。

今日は雨だからコーヒーには味噌を入れましょう
という主張と、
あなたはコーヒーに調味料を入れることに賛成ですか?
という設問は、

「今日は雨」→「現憲法はGHQに押し付けられたみっともない憲法」
「コーヒー」→「憲法」
「味噌を入れる」→「立憲主義をやめる」
「調味料を入れる」→「内容はさておき現憲法をとにかく変える」

とそれぞれ置き換えると、今のリアルな言論風景が立ち現れる仕組みになっています。(※4)


【注釈】こちらです↓

続きを読む "「今日は雨だからコーヒーには味噌を入れましょう」と言われたら" »

2014年3月12日 (水)

まるの中と外



    「まるの中と外」


地面に立って自分を囲う円を描くと、内側と外側が生まれる。
しかし地球を球体として視てみれば、地表に描かれた円の「中と外」は視点によって入れ替わる相対概念に過ぎない。

丸いドーナツの穴は中空で、そこには何も無く、あるいはドーナツ以外の全てがある。

「まる」から想起するものは有形のものの他に、正解を意味する記号や、優しさや平和といった抽象的イメージもある。

また、定義に合うものと合わないものを区分けするベン図の円を考えれば、「まる」はさまざまな概念の枠組みであると言ってもよい。

たとえば「日本人」という枠組みを見つめたとき、歴史を有史以前まで遡るまでもなく音楽ひとつを取ってもあらゆる文化は混じり合い、その境界は大きく滲んでいる。
国境や人種で分けて測ることには、一体どれだけの意味があるのだろうか。


なかのむらぼ
Love & Peace

(アルバム・タイトル「まるの中と外」について)


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前ログにてアルバムのご案内をしていますのでご覧ください。
こちらです↓

『まるの中と外』/なかのむらぼ



by りき哉

2014年1月 1日 (水)

先人から受け継いだものと、次代へ残すもの

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奈良の法隆寺は、現存する世界最古の木造建築です。
1300年も前に建てられた木造の五重塔が、(おんぼろになって建っているのではなく)今もその姿に乱れなく「きちんと天に向かって一直線に」建っているのは驚異的なことです。

木材は年月とともに捻れたり反ったりしていきますが、捻れ方や反り方はその木が育った環境(たとえば日の当たり方や、風の受け方等々)によってそれぞれ違ってきます。
木から切り出されて材となった後も、生育によって得た癖は何百年にも渡って現れるのだそうです。

法隆寺を建てた飛鳥の工人たちは、山で木を選び、その木の癖を読み、「この材は三百年後にはこういう風にこれだけ捻れるから、この材と組み合わせるとちょうど良い」というようなことを見極めながら、年月とともに部材同士がしっかりと結合し安定するように、建物全体を組み上げました。
そうして千三百年を経た今も、五重塔は真っすぐ美しく建っています。

最後の法隆寺棟梁・西岡常一氏の『木のいのち 木のこころ』に触れたのは二十代の時(20年以上前)で、以来この本は幾度となく読み返してきました。

「昔はおじいさんが家を建てたらそのとき木を植えましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや」(同書より)


さて、福島の原発事故から2年10ヶ月が経ち、2014年という新たな年を迎えました。

半年前のことです。

「それは次の世代が考えること」

昨年7月17日のTV「報道ステーション」にて、放射性廃棄物が大量に来ることへの心配を問われて、六ヶ所村の村議会議長はそう答えたそうです。
「それは次の世代が考えること」と。

これほどまでに悲しい言葉があるものだろうかと、涙が溢れました。

今はまだ幼い子どもたちや、これから生まれてくる子どもたちに、私たちが作り出した大量の放射性廃棄物や福島原発事故への、いったい何の責任があるというのでしょうか。

己の目先の表層的な豊かさばかりを優先し、自分たちが出したゴミを何の責任もない世代に「これをどうするかはお前たちが考えることだよ」と言って平然と渡すような生き方を、私はしたいと思いません。

1300年前の人々は、私たちに法隆寺を残してくれました。
数値では測ることのできない知恵や思想が、様々な文化の中でずっと受け継がれてきました。

一方で私たちは今、千年後、否、ほんの数世代ほど先の人々にいったい何を残そうとしているのか。

いまだに経済がどうとかエネルギーの安定が云々というレベルで「現実」を語る人たちがいます。
現状を理由に「無理だ」と言うのは、「私はこの現状を変えたいと思いません」と言っているに過ぎません。
明日の「現実」は今日の決断の先にあるのですから。

本当の豊かさとは何なのか。
どんな未来を描きたいのか。
何を次代へ伝え残したいのか。

そういったことを、これからも丁寧に考え続けていきたいと思っています。


・・・という話を以て、2014年・年頭ご挨拶(の前編)とさせていただきます。
あの自民改憲案にすでに露になっている、そして安倍政権のこの一年間を見るにますます鮮明になりつつある「日本が立憲主義から逸脱しようとしていること」など、一言申し上げたいことは山積みになっているのですが、ぼちぼちアップしたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願いします。


(トップの写真:2009年10月、法隆寺)

by りき哉(2014年 甲午 元旦)



【追記】(2014.1.4)
昨夏広島で公開された写真家・土田ヒロミ氏とのコラボレーション作品を、YouTubeにアップしました。
映像作品「フクシマの唄」(音楽:相馬二遍返し組曲)


主な関連過去ログ

2011/05/04 魔法などはなく、言葉が一陣の風となる〜持続可能エネルギーへ
2012/08/05 デモについて(再稼働反対というシュプレヒコールが含意するもの)
2012/12/14 この岐路に思うこと

2013年12月29日 (日)

ピアノとの日々の出会いの中であった或る出来事

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(12月20日の公開日記より。藤沢市・鵠沼「ピアノサロン高松」でのライブを終えて)

弾いた瞬間に響きと気持ちが通じ合うようなピアノに出会うことは極めて稀ですが、先月桐生で出会ったピアノと、その半年前に出会い今日も弾いた鵠沼のピアノは正にそうで、その音の優しい丸みは本当に奇跡的な美しさでした。
桐生ではその調律師とお話する機会を得て、お名前も伺いました。

そして今夜(鵠沼にて)、「このピアノの調律師は群馬から来てくださっているんです」と聞いて、「えっ!」と息を呑みました。
自分が驚嘆し一目惚れした(メーカーも大きさも違う、場所も遠く離れている)二台のピアノは同じ調律師に調律されていたのだと知り、全身が震えました。

(半年前の鵠沼でのこの日記と、先月の桐生でのこの日記が、このような運命的な繋がりを持とうとは)(了)

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【補足】
(何にそれほど驚いたのか、ピアノの調律について詳しくない方へ)
ピアノという楽器は調律によって、つまりは調律師によって全く違った個性を持ち得ます。
この文脈において「調律師」は、「魔法使い」と読み替えて頂ければと。


トップの写真:
12月20日、藤沢市・鵠沼「ピアノサロン高松」(中野渡章子さんとのデュオ・ライブ)にて。


by りき哉

2013年1月 2日 (水)

2013年 みずのと巳/年頭ご挨拶

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2013年。新年のご挨拶を申し上げます。

当ブログも6年目。
元旦に、この先を見つめるために、昨年一年間の自分の言葉を振り返ってみました。

題して、『本人が勝手に選ぶ、2012年・中村力哉名言・ベスト10』

「名言」は言葉の綾ということで。
つまり、ピックアップした以下の言葉(というか出典記事の全文)は、年頭に当たって改めて思うことの無数にある断面の内の一つなのだと、改めて思う次第なのです。


【第10位】
自由に一つの模様を描いて、それが美しいかどうか、眺めて眺めて眺め尽くす。見る角度や高さや当てる光を変えてみたりして、あらゆるモノサシを当てて、本当にそれがベストかどうか、とことん考える。直感で瞬時に確信が持てることもあるけど、大抵は悩み抜いた先に答えが見つかる。その積み重ね。
(出典:忘我


【第9位】
結局、何かを学ぶということは、一つの観念を身につけるということでもある。それは固定観念となって当人の視野を縛ることになるかもしれない。でも、何らかの概念を身につけなければ、その周りに無限に広がる可能性について知ることも想像することもできないだろう。
(中略)
オタマジャクシやコードネームが棲息する「五線譜」が生み出したシステムの、その茫漠さにたじろぐ。
(出典:旋律の座標系(ピアノの黒鍵の音名をめぐる思索のかけら)


【第8位】
熊本の「牛深ハイヤ節」が北前船で物資とともに佐渡へ運ばれて「佐渡おけさ」になり、それが津軽へ渡って「津軽あいや節」になった。当然だけど、文化は時間的にも、地理的にも連続している。その連続性を想像すること。この映画に共感したメッセージの一つは、そのことの大切さ。
(出典:『この空の花 ―長岡花火物語』を観て


【第7位】
音楽は、以前の自分にとって手段ではなく目的だった。3.11以降、自分にとっての音楽は、目的から手段に、少しシフトしたのかもしれない。手段は目的の達成のために取捨選択されるものだ。果たして私の中で音楽は、その重みを少し失ったのだろうか。
(出典:3.11から経た無限の時間


【第6位】
立憲主義とはそもそもどういうことなのか、天賦人権説をとらないということは何を意味するのか。
(中略)
今まで当たり前のように考えていた基本的人権の思想は、私たち一人一人が注意深く見守っていなければ、うっかりすると連鎖的に壊れていってしまうような、とても繊細な、最もかけがえのないものなのだということを、私はこの改憲案を通して知りました。
(出典:この岐路に思うこと


【第5位】
でも敢えて断言しよう。音楽を演奏する上で最も大切なこと。それは、「音楽全体を見渡し、自ら己の為すべき事を常に探しつつ、瞬発的に応じていく力」であると。そして、その中でも特に大切なのが、「己の為すべきことを自ら探す力」であると思う。
(出典:己の為すべきことを自ら探す力/調草子 kaori-ne ライブ後記


【第4位】
経済の大切さにしろ、安定した電力供給の大切さにしろ、エネルギー安全保障の重要性にしろ、どれもこれも、脱原発を主張している誰もが承知している当然の話ばかりです。それらは議論の論点ではなく、議論の前提に過ぎません。デモに参加する人々は、そのような前提はすべて了解した上で、その先を見据え、現実を見渡し、論理と倫理に基づき、希望と決意を抱いて「再稼働反対」と叫んでいるのです。
(中略)
日々を暮らしていく中で何を大切にしたいのか、便利さや豊かさの価値基準そのものが根底から見直されようとしているのに、「電気が足りるかどうか」を旧来の価値観と仕組みを前提にしたまま計算することの不毛さ。
(中略)
「経済が回らなければ命も守れない」とか「経済か命かなんていう二者択一は存在しない」などと、誰も提出していない「経済か命かという二元論」を勝手に想定して一方的に批判している人たちは、「経済より命」という言葉をわざと誤読しているのか、それとも本当に読解力がないのか。
(出典:デモについて(再稼働反対というシュプレヒコールが含意するもの)


【第3位】
この唄は、千葉県長生郡一宮町を中心とした九十九里沿岸一帯の漁師たちが大漁祈願成就の御礼、また海上安全への祈りを込めて歌ったと伝えらる海唄です。
(出典:ピアノで織りなす千葉県民謡「九十九里大漁木遣り唄」


【第2位】
パワー・ウインドウは、「大切な何か」どころか、求めたはずの利便性すらも(上述のように)逆に失っているのだ。
(出典:クルマのマドは手回しで


【第1位】
その「エコロジー性と利便性のバランス」を考えれば、人類史上最大の発明は自転車である、と言わずして何があろうか。
(出典:自転車都市の思潮


というわけで、
今年も思うところを諸々ポツポツと書きたいと思います。


個人的な抱負は、例年のごとく「耳を澄ます」。
本当に自分は耳を澄ましているか。既知の理論や己の経験に囚われていないか。
昨年はそれがどれだけ出来ていたのか?と自問すると反省しきりですが、先入観を捨て、少しでも無垢な耳で音と静寂を聴けるよう、今年も(マイペースで)精進したいと思います。


年始のライブは

● 1月4日(金)
 東京「東京俱楽部 本郷店」にて、シンガーのMARKAさんとのデュオ・ライブ

● 1月9日(水)
 渋谷「JZ Brat」にて、津軽三味線・工藤武さん率いる『和魂洋奏・SHAH』 ライブ

● 1月10日(木)
 新小金井「NASH」にて、MARKAさんと青木タイセイさん(tb)との三人編成によるセッション・ライブ

など。(詳細はLIVEの予定にて)
とても楽しみです。


本年もどうぞよろしくお願いします。


トップの写真
PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)
東京・浅草(2011年夏)


by りき哉

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