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2011年3月 6日 (日)

ミノルタオートコードでカラー

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昨春から再び撮り始めたフィルム写真は、レンタル暗室で自分でプリントをやりたいということもあってモノクロでしか撮っていなかったのだが、年末にやってきたミノルタ・オートコードで、そして中判でカラーというのはどんな感じだろうかと、ふと思ってこの一月ほどの間、オートコードに4本ばかりカラーネガフィルムを詰めて撮ってみた。

ラボにお願いしたその現像とスキャン画像が上がってきて、その画を観てとても感激した。

わぁ〜!カラーも楽しいじゃないか!
素敵すてき!
オートコード素晴らしい!

これがオートコードの描写なのか、今回使ったフィルムの銘柄(コダック・エクター100)が持っている味わいなのか、その辺のことが初心者の私には判断がまだつかないのだけど、なんとも言えないこってりとした色合いとか、空気感とか、画からにじみ出てくる雰囲気に、パソコンのディスプレイで見慣れていたデジタル一眼レフの画とは異質な何かがあるということを、見た瞬間に感じた。

これからしばらくは、カラーでもどんどん撮ってみよう、と思った。

そんなわけで、今回は
カメラ:Minolta AUTOCORD
フィルム:kodak Ektar100
で撮った写真の紹介(の第一弾)。




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すべて先月(2月中旬)箱根にて。
朝の光。

正方形フォーマット(ましかく写真)ゆえの楽しさも改めて実感。


by りき哉




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2011年2月 1日 (火)

二眼レフがやってきた/ようこそMinolta AUTOCORD:後編

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前編からの続き。


やってきたミノルタ・オートコードにモノクロ・フィルムを装填し、早速に近所をぶらりと試し撮り。

二眼レフの大きなファインダーを屋外で覗いて、まずその風景の見え方に感激を受ける。
この視覚体験は、何とも言葉に尽くせぬ、不思議な楽しさだ。

今時のデジタルカメラの液晶みたいに大きな画面でありながら、しかし(電気仕掛けの映像ではなく)「光学」のファインダーであるという点。
ダイレクトに世界に対峙している実感がある。

ファインダーの中で前方から歩いてきた人が右側をすれ違うのかと思っていたら実際には左側を通り過ぎ、ぶつかりそうになって驚いたり・・。
左右反対に見えるファインダーに早く慣れなくては・・。

長方形でなく真四角で景色を切り取る感覚も、とても新鮮だ。

フィルム一本(12カット)を撮るほんの2時間ほどの間に、二人もの人(ご年配の男性)から声を掛けられた。

「珍しいね」とか「懐かしいなぁ」とか。

これは二眼レフの、思わぬ「効用」だった。
こういうふうに人と出会えるのは、とても嬉しい。
少しおしゃべりをして、仲良くなったところでパチリと撮らせて頂いたり。
デジカメでは、こういう感じの出会いは見込めないだろう。

そして後日、現像所から上がったネガを持って早速レンタル暗室に入った。
(今回も自宅から近い、新宿の「Place M's TOKYO DARKROOM」へ。)

暗室でベタ焼きを取り、それを見てまた感激。
一コマがこの大きさ(約6センチ四方)だと、このまま一コマを切り抜いて小さな額に入れて鑑賞できるのでは・・と(とても初々しい私・・)。

そして(とりあえずキャビネ大サイズで)12カット全部、、条件をいろいろ試しながら計31枚を焼いてみた。(全部焼くならベタ焼きの意味はなかった?)

紙焼きをチェックして、カメラに問題ないことも確認できて一安心。
問題は自分のセンスと技術だけだ。
たぶん、経験を積めばそれも少しずつクリアされていくだろう(・・といいな、と願う)。

搭載されているロッコール75㎜f3.5というレンズも(買ってからネットで調べたのだが)、とても評判が良いようだ。


それにしても、フルメカニカルの機械は、つくづく良い。
このカメラはメカトロニクスではなくて、歯車とかバネとかテコとか、そういう機械要素だけで動いているのである。
素材も、ネームプレートまで金属で、たぶんプラスチックは一片も使われていないと思う。

モノとしての手触りや存在感は、そういった目に触れない部分からも伝わってくるものだ。
道具に対して慈しむ心は、それで撮る写真にも写し込まれるに違いない。

美しく精悍でユーモラスなルックスも、フル金属ボディの手触りも、機能性や操作性も、そしてレンズの描写も素晴らしいオートコード、これからPENTAX LXとともに愛でて活用していこう。




記事トップの写真は、オートコード試写で撮ったフィルムのベタ焼き。
コマの大きさ比較のために、35ミリフィルムのベタ焼きを並べてみた。
このように中判(このカメラのフォーマッットは6×6センチ)は、面積で35ミリフィルムの約4倍も大きいので、より精細な表現が可能なのである。
(私がちゃんと使いこなせれば・・だけど。)
右下に置いてあるのが、35ミリとブローニーそれぞれのパトローネ。


下の写真は我が家の銀塩カメラ、LXと今回仲間に加わったAUTOCORDのツーショット。


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「あれ?・・LXについてるレンズ、これはプラナー50/1.4では?・・いつの間に導入したんだ?」・・というするどい指摘があるかもしれないが(ないと思うけど)、それはまたいずれ機会があれば・・。


【追記】2011/03/06
 ミノルタオートコードでカラー



by りき哉



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2011年1月28日 (金)

二眼レフがやってきた/ようこそMinolta AUTOCORD:前編

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先日、二眼レフカメラを入手した。
ミノルタのオートコードというカメラだ。

今まで35ミリの(一般的な)一眼レフしか経験がなかったが、中判への興味は自分の中で常に隅の方にあった。

いつかは中判にもチャレンジしてみたいと憧れつつも何となくハードルの高さを感じていて、カメラ屋さんに行っても見て見ぬふりをしてきたのだが、用事のついでに立ち寄った行きつけの中古カメラ屋さんでふと思い立ち、ローライフレックスとハッセルブラッドを初めて触らせてもらって、基本的な操作方法を教えて頂いた。

中判カメラに於けるローライフレックスとハッセルブラッドは、ピアノで言えばスタンウェイとベーゼンドルファみたいなものだ(と思う)。
どちらも(中古でも)とても高価なカメラだから、ライカと同様、お財布に相談するまでもなく自分には無縁と承知している。

しかしそれぞれを実際に触ってみて、自分の慣れ親しんだ35ミリ一眼レフと姿形がまったく違うために謎だったその操作が解ってみると、当初感じていたハードルは幾分低くなったように感じた。
35ミリでも中判でも、ファインダーを覗き、絞りとシャッタースピードを決めてピントを合わせてレリーズするだけであるのは同じだ。

そして二眼レフのローライフレックスと一眼レフのハッセルブラッドでは、私にはローライの方がスッとしっくりときた。

ハッセルはとても重たいのと、レリーズでファインダーがブラックアウトしたままになる点が、私には少しマイナスであるように感じた。
(さらに、レンズなどをいろいろ交換できることはハッセルのシステムの利点であるが「それは逆にどこまでもお金がかかることを意味する」と思えた点も、私にはマイナス点であった。)

ローライは、ハッセルに比べれば断然に軽かったし、よりレトロな外観も素敵だった。
レンズ交換はできずそれ一台で完結する、という点にも潔さを感じる。

ふむふむ・・なるほど。
いつか(遠い先のことであろうけれども)二眼レフにチャレンジしてみよう、
・・と思った。

そして、その場でミノルタ・オートコードに出会ったのである。

このカメラについては何も知らなかった。
陳列棚から出してもらい、カウンターで手に取ってみる。
16,800円也。
ローライの中古の、十分の一から二十分の一の値段である。
しかし、廉価なのに、とてもしっかりした作り。
その個体は見た目もきれいで、動きもスムーズだった。
ファインダーもきれいで見やすかった。
とても50年以上も前(1950年代)のカメラだとは思えない。

高級品であるローライフレックスは確かに素晴らしい。
しかし、このオートコードも、負けず素晴らしい存在感を放っていた。
操作性は、むしろこちらの方が上であるようにさえ思った。
(たぶんローライはピント合わせと巻き上げで手を左右に持ち替えないといけないが、オートコードは右手だけですべての操作を行える。)

同じ値段で並んでいたシーガル(SEAGULL)の二眼レフも触らせて頂いたが、それに比べると(申し訳ないが)このオートコードの質感と操作感は圧倒的な心地よさだ。

手にしてファインダーを覗いた瞬間、(この値段のことも考えれば)もう一目惚れしたようなものだった。
対費用効果(費用対効果とも)で言えば、これの倍以上の値段のコンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)よりも、得られる写真のクオリティは遥かに高いのは間違いないし、撮影することの楽しさ・喜びだってコンデジの比ではないだろう。

彼(オートコードくん)が、
「私はとても良いカメラですよ。しかもこんなに程度が良くてこの値段は、これ以上ないくらいお得ですよ。中判にもチャレンジなされば、あなたのフォトライフは更に楽しくなりますよ!」
と語りかけてくるのが聞こえた。

ペンタックスLXと出会ったときのことが思い起こされた。
あの時、LXくんも同じようなことを私に囁いたのだった。

今回もこれは必然の出会いであることを直感しつつも、買い物に慎重な(勇気のない)私は二日間キープしてもらう約束をして店を後にし、・・二日後に購入したのである。

購入前に他の中古カメラ店をハシゴして、何個かの個体を見比べたのだが、たしかに、これはどれよりもはるかに程度が良くて安かった。
おそらく買い物としては「圧倒的勝利」であったに違いない。

しかし何せ50年以上前の機械なので、実際にフィルムを入れて撮ってみないことには安心できない。
(念のために補足するが、骨董品としてではなく、実用品として求めたのである。)

レンズ前玉にかすかに拭きキズがあり、一般的にそれは(後玉でなく前玉の少しくらいのキズは)撮影には殆ど影響しないらしいが、この個体の場合はどうだろうか。

そして、ブローニー(中判)フィルムで撮る、というのはどんな体験だろうか。

実写テストを経た感想は後編にて。
つづく。

記事トップの写真は、ウチにやってきたミノルタ・オートコード。
かくも精悍かつ美しい(でしょ?)。
正面下部のピント・レバーが、笑っている口みたいで、その両側にはチョビヒゲを蓄えているようで、なんともユーモラスな表情に見える(のは私だけ?)。

by りき哉



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2010年12月25日 (土)

M.HASUI暗室ワークショップ参加の巻

ログ「暗室初体験の巻」から続く。

その後、早くまた暗室に行きたいと思いつつも叶わずにいたのだが、つい先日は、写真家 M.HASUI(蓮井幹生)氏のプリントワークショップに参加する機会を得た。

氏のブログを拝読していて、前々から参加したいと思っていたのだ。
初心者の私には過ぎたワークショップかも・・という不安も少しあったが、「一度でも暗室に入ったことのある人」という参加条件は辛うじてクリアしているので、迷わずに申し込んだ。
先着4名限定。

午前中にまず理論を学んだ後、午後は暗室でそれを実践(持参したモノクロ・ネガをバライタ印画紙にプリント)していくという流れ。
教えてくださる理論は、本に書いてあるような一般的なそれとは異なる、HASUI先生が独自に確立された方法論である。
わくわく心躍らせながら参加したワークショップは、その理論と実践がとても有意義であったのはもちろん、HASUI先生が語る言葉の隅々にその哲学が滲んでいて、濃密でとても楽しく刺激的なものだった。

印象的だったことは幾つもあるのだが、そのうちの一つは「写真(プリント)は工芸品足り得るもの」という言葉。

それは、まさに私が最近気づいたばかりのこと(ログ「写真は情報か物質か」に書いたこと)を強く再認識させる言葉でもあったし、実際そのことは、今回の実践(プリント)を通してつくづく実感するばかりであった。


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参加者からの写真悩み相談に、講義を離れて真剣に答えるHASUI先生。
その姿と窓からの光が何とも良い感じだったので、思わず「撮ってもいいですか?」とパシャリ。
とても情熱的かつ繊細なアーティスト(・・なので、音楽家としての私はとても共感を覚えることが多かった)。
今度は先生の作品展にぜひとも触れてみたい。
Mikio HASUI Photographer ブログ:http://blog.mhasui.com/



そしてワークショップの二日後は、復習を兼ねて一人レンタル暗室へ。
(今回は自宅から近い、新宿の「Place M's TOKYO DARKROOM」へ行ってみた)
学んだことをちゃんとプリントに活かすことができた(と思う)ので、ひとまず合格か。

暗室ワークは、ますます楽しくなる一方である。


・・・というわけで、(当ブログにしては珍しく)この数日で立て続けに(4本も)アップした「写真についての」ログは、取り敢えずここで一段落(のつもり)。

また追々書こうと思う。

一つ、ご報告し忘れていたこと。

当ブログのカテゴリーに、「Photo Life」を新設しました。
「随想録」や「OFFの日記」のログの中から、写真についてのログを「Photo Life」で一覧できるようにした次第です。


by りき哉

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2010年12月23日 (木)

暗室初体験の巻

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ログ「ようこそ!PENTAX LX」と、「写真は情報か物質か」からの続き。

そういうわけ(LXを購入したことと、写真の「モノ」としての意味に思い至ったこと)もあり、今年の初夏、ついに初めて暗室に入ったのである。

以前にここでちょっとご紹介した写真家の桑田瑞穂さんにレンタル暗室に行ってみたい旨を話したら、「では一緒に行きましょう!」と同伴・指導してくださったのだ。
(ああ、勿体ないほどのお話! 桑田さん、どうもありがとうございました!!)

暗室体験に先立ち、「ひとつのネガから実に多様な表現ができてしまうので、まずは現像所でノーマルにフィルム現像したネガを使ってプリントし、自分のなかの基準をつかむと良いでしょう」とアドバイスを頂いた。
よく写真を音楽に喩えて、「ネガは楽譜でプリントが演奏」というふうに言われるそうだ。
うーむ、なるほど、楽譜と演奏か。

そしていよいよ、膨らんだ期待と、LXで撮影したモノクロ・ネガ3本と、そのコンタクト・プリント(ベタ焼き)を携え、横浜のレンタル暗室「THE DARKROOM」へ。

ベタ焼きを眺め、焼くカットを選び、私は大キャビネ判で、1カットごとに幾通りも条件違いで試しながら、この日、全部で9カットを焼いた。

ああ、なんて楽しい!
印画紙に現れたモノクロ写真の美しさ。
息を凝らして(あるいは咄嗟に、あるいは何気なく)切り取った一瞬が、こんなタッチとトーンを持った写真になるのか!

私は、「モノとしての写真」の手触りと重みを、頭ではなく身を以て味わうことになった。

こういうふうに一枚一枚を丁寧に作り上げていくことを通して、その1カットに深く向き合うことができる。
時間の重みと確かな存在を実感することができる。

暗室には、コンピュータのディスプレイに表示された画像を見ているだけの体験とは明らかに次元の違う何かがあるように思えた。

今まで撮影するだけだった(しかもこの5年くらいはデジカメで撮ってディスプレイで観るだけだった)写真だが、ここへきてますますその奥へ入り込んでいきそうな予感・・。

今回購入していった印画紙は、ILFORDの多諧調RCペーパーで、半光沢・サテンというタイプだが、この質感はとても好きな感じで大正解だった。
(桑田さんも「これいいですね」と、とても気に入っていた。)
当面、この銘柄を常用とし、これはというカットをバライタ印画紙でチャレンジしてみたい。


記事トップの写真は、プリントしてきたばかりの写真を、帰宅して机に並べてみたところ。

by りき哉

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2010年12月22日 (水)

写真は情報か物質か

「写真を巡る初心者の思考」vol.6として

前回に引き続き、今回はログ「写真について解らないこと」で予告した三つの気付きについての二つ目。

一年近く前だったか、ある写真家が写真雑誌(アサヒカメラ)の中でさりげなく語っていた言葉に、思わずハッとした。

「写真は紙にプリントされて初めて『写真』である」

正確な文言は失念したが、きっぱりと言い切ったその要旨に触れた瞬間、私は「表現としての写真」というものについて、ああ、そうか!・・と、何かが解った気がした。

デジタルデータのまま(コンピュータのディスプレイで観るだけ)では写真ではなく、プリントされて初めて写真と呼べるのだ、という思想。
(私にはそれは「思想」と呼ぶに相応しいくらいの、大きなパラダイムシフトだった)

それまで私は、カメラを通して描かれた絵柄が写真だと(信念としてではなく、漠然と)思っていた。

しかし、「カメラを通して写し止められた二次元の絵柄」だけが写真なのではなくて、それは、紙の厚みと重さと手触りを伴った物質なのだ。
写真とは、そこに写された「情報」ではなく、実体のある「モノ」なのだ!

紙という手に触れることのできる、物体としての写真。

そういうふうに改めて捉えると、たとえば「写真を買う」ということの価値観が、より明確に理解できるようにも思えた。
(まだ写真を買ったことはないけど・・)

私が銀塩(フィルム)写真への、そして自分で印画紙にプリントすることへの興味をかき立てられたのは、この新たに明確に立ち現れた思想によるところが大きい(ように思う)。


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物質としての写真は、こうして手に持つことができる。
手にしている写真は、初めて暗室に入って自分でプリントした銀塩写真(のうちの一枚)。
(一方、コンピュータのディスプレイに表示された画像に手を触れることは「写真に触れること」ではなくて「ディスプレイのガラス面に触れること」に過ぎない)

・・というわけで、ついに暗室を初体験した話は次回に。。。


【補記】
この話の前提として、こちらのログもどうぞ↓

 記録と表現 (2010.5.31)


by りき哉

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2010年12月19日 (日)

写真から意味を断ち切るという見方

「写真を巡る初心者の思考」vol.5として

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ログ「写真について解らないこと」で予告した三つの気付きについて、今回はその一つ目。


昨年、写真を作品として観るときの自分なりの基準(方法)を一つ発見した。

写真から意味を外して観る、という方法だ。

被写体が人であったり物であったり風景であったり、そういう具象であっても、写真に現われた、ただその形や色などだけを観る。

それまで私は、子供の笑顔が写った写真は「子供の笑顔の写真」だと思って見ていたし、きれいな夕日を写した写真は「きれいな夕日の写真」だと思って見ていた。

しかし、それではいけない。
・・ということはないのだろうが、とにかく一度そういう「何が写っているのか」を見る見方を禁止してみるのだ。

子供を写した写真であっても、意味のない二次元の図形とか模様として眺めてみるのである。
子供の表情が良いとか、決定的瞬間であるとか、そういうことはいっさい考えない。

これは単に写真の、たとえば「構図だけを見る」ということではない(と思う)。
ある写真の構図について考えるときには、写っている内容(被写体のもつ意味)も関わってくるであろう。それは、主役と背景だとか、そこに写っているもの同士の何らかの関係を考量することになるはずだ。

そうではなくて、もっと徹底的に「記録された内容」を完全に取り払い、意味を断ち切る。

そうして眺めてみると、何となく写真の良し悪しの判断が、専門家のそれと一致することが多くなった(ような気がした)。

とくに、写っているものがつまらない(と自分が思う)ものであるとき、この見方は有効であるように思う。

写真に写っている物語に囚われていると、写真に現れた模様・図形としての美しさ・面白さを見逃してしまう。

「歌」から詞(の意味)を外すことで、「音楽」そのものが聴こえてくる。
・・ということと、似ている(気がする)。


記事トップの写真は、駿府公園・紅葉山庭園にて(2010年6月25日)。


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仙台港に入港する客船「飛鳥Ⅱ」から(2010年9月24日)。

by りき哉

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2010年11月10日 (水)

奈良ポタリング写真紀行

「ポタリング」というのは自転車でぶらぶら気の向くままのんびり走ること。
「散歩」ならぬ「散走」あるいは「散漕」という感じだ。

奈良県文化会館での(秋元順子さんの)コンサート翌日(11月4日)、東京へ戻るのを半日遅らせて、一人ゆっくり奈良カメラ・ポタリングすることにした。

今回の旅はハナからそうするつもりで、銀塩(フィルム)一眼レフとデジタル一眼レフの2台を持ってきたのだ。
(仕事道具よりも趣味の荷物の方が多い。)

レンズはそれぞれに、男らしく単焦点一本ずつ。
(重たいズームレンズまで携帯する根性がなかっただけ・・だけど。)
モノクロフィルムを入れたPENTAX LXは50mmF1.4、デジタルのK200Dは35mmF2.8Macroを装着してのお伴だ。


朝、ほどほどに早起きして外を見ると、おお!何ていい天気!
窓から見える山にかかった靄が朝日に照らされて、幽玄の美を醸し出している。

あれを撮らなくては!

もっと早起きすれば良かったと思いながら(でも昨夜も打ち上げで沢山飲んだから、これでも目一杯早起きだよな・・と納得しながら)、急いで自転車を借りて、靄を撮るのに良いアングルを求めて走り出す。

なかなか良いポジションが見つからないまま走っていて、たまたま辿り着いたところが猿沢池だった。

途中、路地裏の風景を撮ったりしながらモタモタしていたせいもあり、すでに靄は先ほどの幽玄さを失っていたが、その代わりに興福寺の五重塔が池にきれいに写り込んだ光景に出会うことができたのである。

この光景が奈良八景の一つで、絵葉書にも使われる定番だということは帰宅してから知った。

何せ「ポタリング」なので、下調べなし、無計画でのぶらぶら散策である。
あの靄が、何も知らない私をここまで導いてくれたに違いない。

やはり、早起きは(ほどほどの早さだったけど)三文の徳だったと思いながら、上下シンメトリーな構図で絶景を捕獲。



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猿沢池から臨む興福寺の五重塔。
そして、この写真がこの日の「一席」になった。会心のカット。
柳の木の下を走る自転車の位置にも注意を払いながらシャッターを切っている。
(クリック拡大すると見えます。池に写っている姿も。二人。)



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同じく猿沢池にて。興福寺の南円堂を臨む。
「一席」はこちらと一枚目と、どちらかな・・と悩んだけど、こちらは次席かな。
いずれにしても、本日の収穫のベスト2枚。

(以下、この2枚より良い写真はないので悪しからず。)



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興福寺東金堂前にて。
シカって、紙も食べるんだ?知らなかった。
あ〜あ、五重塔の写真が・・。
ねえ、君たちバチが当たるよ(・・って、シカはこの辺りでは御神体だからバチを与える側か。)



この後、朝食を取ってから、今度は薬師寺方面へ進路を取った。
大安寺を参り、更にのんびり走る。



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途中で、その趣に惹かれて細い路地へぶらりと。
こういう臨機応変な機動力の高さが、自転車の強みである。
クルマだとこういう瞬発力は望めない。



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その路地の奥が少し開けた所。
向こうに薬師寺の二つの塔が見える。
土手を走る自転車の位置にも注意を払いながらシャッターを切っている。



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ホテルで借りて乗ってきた自転車。
ポタリングには快調快適。



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薬師寺近くの秋篠川で釣りをする人。
気持ち良さそう。
遠くの鉄塔もいい味を出している(ように思う)。



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同じ場所で橋の反対を眺める。
川面への木の写り込みがきれい。
昼になってもこの通りの秋晴れ。
ぽっかぽか小春日和だった。



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薬師寺すぐ近くの路地を入ったところで、民家の塀を狙う。



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その路地を更に進んだところで。
青空と柿と木の幹のコントラストを見て、露出をいろいろ試行錯誤しながら撮った。



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色と背景のボケを楽しむための1カット。
同じく薬師寺近くの路地にて。



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唐招提寺近く。
田んぼと電信柱と民家のバランスが自分の心象風景と重なっていたので、金網を主役に背景ボケを楽しみつつ・・のイメージ写真。



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秋篠川沿いを走りながら、気持ち良さに空を見上げる。



この後は平城京跡へ向かい、観光の人で溢れる朱雀門の前を通り(写真として面白いものが撮れなかったので割愛)、自転車をホテルに返却してから、徒歩で奈良公園方面へ。

地図に出ていた春日奥山遊歩道へ行きたかったのだが、適当にぶらぶら歩いていたらそこは春日大社の表参道だった。



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石灯籠の基礎部分が夕暮れ近くの陽に浮かび上がってきれいだった。
本当はここで、逆光に照らされるシカを狙いたくて粘っていたのだが、灯籠近くの薄暗い日陰に居るシカに私の想いがなかなか届かず断念。



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本紀行ラストの一枚は、春日大社の直会殿(なおらいでん)軒下に並ぶ吊り灯籠。



・・・・

この上ない秋晴れに恵まれ、かように充実の「一人のんびりカメラ散策」を堪能して、奈良をサヨナラしたのだった。

尚、ここにアップしたのはすべて(デジカメの)K-200Dで撮った写真である。
(フィルムはまだ現像していないし、それにスキャナーもないので・・)

すべてノートリミング。

フィルムの現像も楽しみだ。
(ちゃんと撮れているかどうか不安なのも銀塩の楽しみの一つなのだ、と前向きに捉えている。)

by りき哉

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2010年11月 4日 (木)

とりあえず・・写真もう二枚

・・・そういう(サムネイルが減ってしまった)わけなので、子供の写真をもう二枚ほどアップしてみます。

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いずれも2010年9月19日 代々木公園にて。

以前のログ「記録と表現」の話に結びつけるならば、この二枚はどちらも完全に「記録」としての写真です。

一方、この二枚と似たような印象かもしれませんが、一つ前「ありゃりゃ?サムネイルが・・」の写真は、どちらかというと「表現」のつもりでシャッターを切っています。

・・・う〜ん、微妙でしょうか・・?

by りき哉

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2010年11月 1日 (月)

ありゃりゃ?サムネイルが・・

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このページのサムネイル(画面右の、小さい写真が並んでるやつ)が、今まで5×5=25コ並んでいたのに、どうも最近(いつの間にか)それがだんだん減ってきて、「何か不具合かな?そのうち元にもどるだろう」と楽観していたのだけど・・・、
「ひょっとして、写真をアップしてから一定期間経つと一覧から消えていってしまう仕様なのかも・・・!」
と思い至りました。
(このブログのデザインは自分で作っているわけではなくて、与えられたテンプレートから選んで使っています。思い通りにレイアウトする知識も技術もないので。)

このところ、写真のない、文章だけの記事が多かったからなぁ・・。
(そういった、文章だけの記事は右のサムネイルに並ばない。当たり前だけど。)

自分の写真・カメラ熱が冷めていたわけではありません。
相変わらず熱は高いままですし、写真ネタで書きたいこともたくさん溜まっているのですが、なかなか趣味のことまでゆっくり書く時間がなく・・・、というのは言い訳ですね。

ともかく、サムネイルが消えつつあるのは、ちゃんと趣味のこともしっかりやりなさい、というお告げだと思って反省しつつ、慌てて写真を見繕ってアップしておきます。

とりあえず、一枚(ちょっと前の写真ですけど)。
9月2日 房総(一ノ宮海岸)にて。

この写真、子供の陰が頭まで入っていたら完璧だったんだけどなぁ・・とちょっと惜しい気がしています。
(両足とも地面から離れているところと光の感じは気に入っている。)

by りき哉


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