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2025年2月13日 (木)

「1+1=2」という神秘

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ブログ『「わかる」と「わからない」のあいだ』より断章のひとつを掲載。

※ 全文はこちら→ 「わかる」と「わからない」のあいだ(全文)


【3】「1+1=2」という神秘

かつて音楽は、演奏されるその場でその瞬間に生まれて消えるものであった。蓄音機の発明がもたらしたことの大きさを思わずにいられない。

小学校の何年生の頃だったろうか、トーマス・エジソンの伝記を読んだ。その中に、幼少時のエジソンが大人たちに「どうして1たす1は2なの?」と訊いてまわるエピソードがあった。大人たちは皆「そんなこともわからないなんて、バカな子どもだ」と思ったという。
エジソン少年がのちに蓄音機を発明することを知っていた私も、やはりこの疑問は何が疑問なのかわからず、「エジソンも子どもの頃はバカだったのか」くらいに思ったように記憶している。

エジソン少年が抱いていた疑問、その問いの深さに私が思い至ることができたのは、つい最近、この十年ほどのことだ。
息子に「素数」を説明する中でその概念に初めて感じ入り、「虚数」に抱いていた違和感がいつしか散じて消え、素数や虚数が「わかった」ことにより、今までわかっていた「1+1=2」がわからなくなった。

たとえばオイラーの等式(e^iπ =-1)を思う。
この等式に至るまでの道筋は、高校数学までの知識があれば辿ってゆくことができる。しかし、ひとつひとつの理路を確かに辿った先に遂にこの等式へと至ると、その光景の神秘性に心を奪われ、呆然と立ち尽くしてしまう。出自を異にしていたはずのネイピア数と円周率と虚数単位のこれほどシンプルで美しい関係が、いったいどこに潜んでいたのか。どれほど言葉を尽くしてもこの感慨は語り得ない。

さて、このオイラーの等式に見入りながら私は思うのだ。
かくも美しく深遠な数式も、ここへ至った道筋を振り返って源流を辿ると「1+1=2」に行き着く。ここから自然数が生まれ、実数そして複素数へと数の世界が広がったのではなかったか。「かけ算」は単に同じ「たし算」の繰り返しに過ぎなかったはずだ。「わり算」は「かけ算」の逆操作に過ぎなかったはずだ。小学一年生で学んだ「たし算」の先に、オイラーの等式に至るまでの道は続いていた。しかも、この遥か先までもずっと続いているらしい。

今の私には、「1+1=2」は神秘と感じられる。
「1+1=2」こそ神秘だ。

おそらく小学一年生くらいだったろうエジソン少年の境地に至るのに私は50年近くの歳月を要したが、ともかく至ることができたとすれば何よりである。

※ 全文はこちら→ 「わかる」と「わからない」のあいだ(全文)



補記(蛇足):
「1+1=2」の意味を問うことは「数とは何か」を問うに等しい。「数とは何か」というのは「数は人間による発明なのか、それとも発見なのか」と言い換えてもよい。それは「論理とは何か」と問うに等しく、「存在」の謎へと重なる。


つづく(ことでしょう)

by りき哉


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