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2025年1月16日 (木)

言葉と染織と音楽と(志村ふくみ展を訪れて)

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本との出会いの不思議さやありがたさを、よく思う。
染織や着物についてまったく無知で、「染色」と「染織」の違いも分かっていなかった私が染織家・志村ふくみ氏のことを初めて知ったのは、十数年ほど前になるだろうか、本屋さんで偶々目に留まった『色を奏でる』(ちくま文庫)を手に取ってのことだった。

その柔らかく精緻な言葉と自然や技芸に注ぐ眼差しに魅了されて、以来、志村氏の随筆や書簡や対談などに親しんできた。これらの言葉の機微や肌理はおそらく氏の作品と響き合ってもいることだろう、と想像しながら。

私の心に深く残っている言葉の中から、少しだけ抜書きしておく。

抜書1:
ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいだだくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。(志村ふくみ『色を奏でる』ちくま文庫 p.16)

抜書2:
色(ハーモニー)が先なのか、間(リズム)が先なのか。両者に追いつ追われつ、そんなときは手にふれた杼をそのまま投げている。(・・・)無意識ではなく、意識のかたまりのような。その中心に入ると、思わず織れてしまう。次は何色を入れようなどと考えるひまがない。手の方が先に杼にふれている。(志村ふくみ『色を奏でる』ちくま文庫 p.61)

抜書3:
人間の狭小(せま)い考えなど問題にもならないほど天蚕の糸はそのままで多くを語っている。語る以前の、無言の力である。併し、人間がそれをあつかうことは至難である。なにより私に重大なことは、織り上がったものが天蚕を汚してはいないか、ということである。(志村ふくみ『ちよう、はたり』ちくま文庫 p.127)

抜書4:
手の中に思考が宿るといってもいい。(志村ふくみ『母なる色』求龍堂 p.119)

抜書5:
志村:ですから緯糸を入れます時に、ちょうど経糸に指がさわるか弦がさわるかわかりませんが、音色が鳴るんです。それが糸が布になる瞬間でもあるわけです。宇佐美英治・志村ふくみ『一茎有情 -対談と往復書簡- 』ちくま文庫 p.113)


ひとまずこの辺りで止めておこう。
今ここでは音楽に触れられている言及を特に選んでみた。

たとえば抜書2や4からは音楽のフリー・インプロビゼーションを思わずにいられない。
ピアノを「弾く」という能動態で語り得る行為ではなく、意思に先立っておのずと生まれてくる音の連なりに全てを委ねる、というような中動態で語らざるを得ない現象ないし境地を自分なりに見つめようと、(並べるのはおこがましいが)以前に私もこんなことを書いている。
→ 参照: 音楽を深く感じるために(2006.6.2)

また、抜書3での「織り上がったものが天蚕を汚してはいないか」との畏れは、私の経験に照らしてみれば民謡をアレンジする際に抱く畏れとよく似ているように思う。「新たなものを付加することによって失われるものもある。そして、その失われるものこそが、それにとって本当に大切なものであるかもしれない」と私は書いた。
→ 参照: 伝承と創出のあわいに(民謡のアレンジについて)(2015.11.30)

抜書5は対談の中の口話である。(文学者・宇佐美英治についてもいずれ別稿に改めたい)
音色が鳴り、糸が布になる瞬間。その瞬間を私も空想してみる。言葉以前の世界からあらゆる存在が言葉とともに生じるその刹那へと、それは重ね合わせられるのではないか。

そして自然と創作の関わりを語った抜書1は、作品づくりに留まらない、あらゆる生活つまりは生き方の全体を捉えていると私は思う。自然に対する向き合い方を、現代社会は一層鋭く問われている。「私は逆だと思う」と力強く言い切られた一言は、確かな重みを持って私の心に置かれた。


かように共感と畏敬の念を志村ふくみ氏に私は抱いていたのだが、先日は氏の100歳を記念した志村ふくみ展(at 東京・大倉集古館)を訪れて、初めて作品の実物を目にすることが叶った。

言葉や写真を通した想像上のものであった作品のひとつひとつに見入り、その深い響きの余韻や揺らぎ、そのあわいに耳を澄ますような至福と覚醒に包まれるままに、静かな時間を過ごした。
それは私にとって音楽体験であったと言っても、決して言い過ぎではない。ベートーヴェンのバイオリン・ソナタ9番「クロイツェル」に由来したという同名タイトル作品も含めてどの作品からも、はっきりとした旋律やリズムやハーモニーというよりは、音色や響きや余韻にこそ焦点の置かれた静謐な音楽が、私には聴こえてくるようだった。たとえば、モートン・フェルドマンのような。

こうした感慨は言葉の中に収まるものではないが、それでもその端切れを書き残そうとするのは、自分の胸に少しでも強く刻み込んでおきたいと願うからである。
志村ふくみ氏の作品のような音楽を、私も目指してゆきたいと。


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この正月を百歳でお元気に迎えられた志村ふくみ氏の、ご健康と長寿を念じています。


【外部サイトのご紹介】

【展覧会 1/19まで】「特別展 志村ふくみ100歳記念~《秋霞》から《野の果て》まで~」(大倉集古館・東京)(しむらのいろ - 志村ふくみ、志村洋子公式ホームページ | SHIMURA NO IRO by Fukumi Shimura & Yoko Shimura)


by りき哉




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