虚数とピーマン

『「わかる」と「わからない」のあいだ』より、断章のひとつを掲載。
※ 全文はこちら→ 「わかる」と「わからない」のあいだ(全文)
2. 虚数とピーマン
「虚数」という数を高校で教わったとき、私はそれを得体の知れない、とても気持ち悪いものに感じた。
虚数単位「i」とは、二乗して「-1」になる数だという。
先生の説明に、「えーっ!」「そんな数ないじゃん?」と教室中がどよめいた。中学校で習った話では、マイナスとマイナスを掛ければプラスになるのであり、つまりどんな数も二乗すれば「正の数」になるはずだ。二乗してマイナスになるとは、いったいどういうことだ。そんな数はあり得ないはずだ。
先生の説明に、「えーっ!」「そんな数ないじゃん?」と教室中がどよめいた。中学校で習った話では、マイナスとマイナスを掛ければプラスになるのであり、つまりどんな数も二乗すれば「正の数」になるはずだ。二乗してマイナスになるとは、いったいどういうことだ。そんな数はあり得ないはずだ。
先生は笑いながら「そういう数があると想定するんだよ」と言った。「想像するんだよ」とも言ったかもしれない。
なるほど。そのように「想定」あるいは「想像」するんだな。それで、それを想定することによって何か先に進めたい話があるのだろう。ではひとまず、その話とやらを聞いてみようか。
なるほど。そのように「想定」あるいは「想像」するんだな。それで、それを想定することによって何か先に進めたい話があるのだろう。ではひとまず、その話とやらを聞いてみようか。
私は、先生の説明を受け入れる心積もりをした。しかし、それから幾度と授業やテストを受けても、「虚数」に対する心情的な受け入れ難さを拭うことはついにできなかった。
子どもが大人に「食べないと大きくなれないよ」と言われて嫌いなピーマンを息を止めて頑張って飲み込むみたいに、虚数を含んだ計算をする度に、それを「えい」と飲み込んだ。
けれども不思議なもので、嫌いなものも、自分の成長につれてか、いつしか好きなものに転じることがある。
けれども不思議なもので、嫌いなものも、自分の成長につれてか、いつしか好きなものに転じることがある。
子どものときには苦手だったミョウガが、大人になるとおいしく感じられる。
子どものときにはサビ抜きで食べていたお刺身にも、大人になるとワサビは必須となる。
苦手だったピーマンや玉ねぎを私が好きになったのは、たぶん小学校2年か3年生くらいのときだ。それはある日突然の出来事だった。
その日、私は大人に連れられて都内のどこかの初めての定食屋さんに入った。
「野菜天ぷら定食おいしそうだな。お前もこれでいいな?」
そう言われて、躊躇しながらも「うん」と応えて不安とともに待っていると、運ばれてきた定食の天ぷらは本当に野菜ばかりで、その中にはピーマンの天ぷらと玉ねぎの天ぷらがあった。観念して息を止めるようにしてピーマンの天ぷらを口に入れたときだ。衝撃が走った。おいしい!ピーマンなのに、ピーマンであるにもかかわらず、なんだこのおいしさは。あっけにとられながらこわごわ次に口に入れた玉ねぎの天ぷらは、さらにおいしかった。
その日以来、天ぷらといえばピーマンと玉ねぎが何よりも(海老よりも)好物になった。天ぷらでなくてもいい。どんな料理であれ、ピーマンも玉ねぎもおいしいと感じるようになった。その定食屋の薄暗かった店内の光景は、50年近くを経た今でも(その天ぷらのおいしさとともに)深く記憶に残っている。
「野菜てんぷら事件」の一方、ミョウガやワサビは、いつそれがおいしいと感じられるようになったのか定かではない。ラッキョウもそうだ。いつの間にか、おいしいと感じるようになっていた。
キャベツが好きになった日のことも忘れ難いのだが、長くなるからまたいずれの機会に譲ろう。
私にとって「虚数」は、これらと似ている。
苦手だったピーマンや玉ねぎを私が好きになったのは、たぶん小学校2年か3年生くらいのときだ。それはある日突然の出来事だった。
その日、私は大人に連れられて都内のどこかの初めての定食屋さんに入った。
「野菜天ぷら定食おいしそうだな。お前もこれでいいな?」
そう言われて、躊躇しながらも「うん」と応えて不安とともに待っていると、運ばれてきた定食の天ぷらは本当に野菜ばかりで、その中にはピーマンの天ぷらと玉ねぎの天ぷらがあった。観念して息を止めるようにしてピーマンの天ぷらを口に入れたときだ。衝撃が走った。おいしい!ピーマンなのに、ピーマンであるにもかかわらず、なんだこのおいしさは。あっけにとられながらこわごわ次に口に入れた玉ねぎの天ぷらは、さらにおいしかった。
その日以来、天ぷらといえばピーマンと玉ねぎが何よりも(海老よりも)好物になった。天ぷらでなくてもいい。どんな料理であれ、ピーマンも玉ねぎもおいしいと感じるようになった。その定食屋の薄暗かった店内の光景は、50年近くを経た今でも(その天ぷらのおいしさとともに)深く記憶に残っている。
「野菜てんぷら事件」の一方、ミョウガやワサビは、いつそれがおいしいと感じられるようになったのか定かではない。ラッキョウもそうだ。いつの間にか、おいしいと感じるようになっていた。
キャベツが好きになった日のことも忘れ難いのだが、長くなるからまたいずれの機会に譲ろう。
私にとって「虚数」は、これらと似ている。
高校・大学生だった頃には気持ち悪かった虚数も、長い年月を経るうちにいつの間にか、その違和感は和らぎ、今はむしろとても味わい深い存在に感じられる。
「ピーマンと虚数は違う」という人がいるかもしれない。「ピーマンは物体として実在するが、虚数は想像上の概念であって非実在だ」と。「味覚は身体で感じる。しかし想像は脳が生み出す」と。
そう。私もきっとそう感じていたのだ、高校生の頃は。
「ピーマンと虚数は違う」という人がいるかもしれない。「ピーマンは物体として実在するが、虚数は想像上の概念であって非実在だ」と。「味覚は身体で感じる。しかし想像は脳が生み出す」と。
そう。私もきっとそう感じていたのだ、高校生の頃は。
先生は「そういう数があると想像するんだよ」と言ったが、この説明の仕方が、今から思えばうまくなかったと思う。
たしかに、「虚数」は英語で「imaginary number」であり、「虚ろな数」であると名づけられている。
しかし、すでに馴染んでいた「実数」も、たとえば「負の数」も、人は「そういう数があると想像した」のではなかったか。虚数が想像上の数だというならば、「-0.7」だとか「円周率π」だとか、そればかりか「0」も「1」さえも、すべての数は想像上の産物ではないか。
しかし、すでに馴染んでいた「実数」も、たとえば「負の数」も、人は「そういう数があると想像した」のではなかったか。虚数が想像上の数だというならば、「-0.7」だとか「円周率π」だとか、そればかりか「0」も「1」さえも、すべての数は想像上の産物ではないか。
リンゴが目の前に三つある。このとき、三つのリンゴのひとつひとつは「実在」しているが、「3」という「数」はどこにも「実在」していない。「3」という数は想像上の概念でしかない。「虚数」もそれと同じことに過ぎない。
つまり、「実数は実際にある数であり、虚数は実際にはない想像上の数である」として分けた、その境界線そのものが虚構であり妄念であったということだ。
つまり、「実数は実際にある数であり、虚数は実際にはない想像上の数である」として分けた、その境界線そのものが虚構であり妄念であったということだ。
人は想像するちからによって「数の世界」を拓いてきた。
虚数も実数も「数」という概念のなかにある。それだけのことだ。
この境地に至ることを、もしかすると(一種の)悟りと言うのかもしれない。
この境地に至ることを、もしかすると(一種の)悟りと言うのかもしれない。
自分を縛っていた違和感が消えることは、「わかる」ということのひとつの現れであろうと思う。
「虚数」の周りに立ちこめていた霧が晴れると、私の立っている「複素平面」は見渡す限りの彼方まで柔らかな陽が降り注いでいた。そよ風が花々をゆらし、湖面で光る波間に水鳥たちがくつろいでいる。
だが、あの霧は、いったいいつのまに雲散していたのだろうか。ふと気づけば晴れていた。
「虚数」の周りに立ちこめていた霧が晴れると、私の立っている「複素平面」は見渡す限りの彼方まで柔らかな陽が降り注いでいた。そよ風が花々をゆらし、湖面で光る波間に水鳥たちがくつろいでいる。
だが、あの霧は、いったいいつのまに雲散していたのだろうか。ふと気づけば晴れていた。
虚数に対して私の中に生じていた変化は、「理解」ではなく「心象」だ。それは言葉の領域から出た「体感」だ。
「ピーマンのおいしさがわかる」とは、「ピーマンをおいしいと感じる」ことにほかならない。自分がおいしいと感じずに「おいしさがわかる」ということはない。
体験は他者に代わってもらうことはできない。それを感じるのは自分であり、唯一無二のそれは、ゆずることも、分かち合うこともできない。
「ピーマンのおいしさがわかる」とは、「ピーマンをおいしいと感じる」ことにほかならない。自分がおいしいと感じずに「おいしさがわかる」ということはない。
体験は他者に代わってもらうことはできない。それを感じるのは自分であり、唯一無二のそれは、ゆずることも、分かち合うこともできない。
言葉が無力だと言いたいのではない。
「わかる」とは「分かる」、すなわち物事を「分ける」ことであるとも言われる。連続する世界を、言葉が切り分ける。人は、物事を分けることで世界を「理解」し、言葉によって文明を築いてきた。
言葉と概念が一体として生じるものであるならば、音楽もまた(詞を伴わない純粋音楽であっても)言葉と無縁には生まれ得ないだろう。
いま私が生きている民主主義社会の根幹は、言葉だ。
ただ、言葉が拓く世界や可能性を肯定し言祝ぐその一方で思う。
(ピーマンやミョウガのおいしさだけでなく)「素数」や「虚数」のような論理的な概念でさえ、それに心から馴染むことができるためには、言葉の領域から溢れた「何か」との邂逅が必要なのだ。
その「何か」は、あるとき突然に現れることもあるし、風が雲をゆっくりと押し流すように気づかないうちに現れていることもある。
いずれであれ、自己のさまざまな体験と情動の重なり合いの中に、それは芽吹くのだろう。
※ 全文はこちら→ 「わかる」と「わからない」のあいだ(全文)
補記:これまでに重なり合った「さまざまな体験と情動」とは具体的に何か。上記まで書いて思い浮かんだその幾つかを、別稿にて近々に書き残してみたい。
(photo: 2024年夏、近所の公園で)
by りき哉
※ 全文はこちら→ 「わかる」と「わからない」のあいだ(全文)
補記:これまでに重なり合った「さまざまな体験と情動」とは具体的に何か。上記まで書いて思い浮かんだその幾つかを、別稿にて近々に書き残してみたい。
(photo: 2024年夏、近所の公園で)
by りき哉
« 言葉と染織と音楽と(志村ふくみ展を訪れて) | トップページ | 「1+1=2」という神秘 »
「1: 随想録」カテゴリの記事
- 言葉と染織と音楽と(志村ふくみ展を訪れて)(2025.01.16)
- 「1+1=2」という神秘(2025.02.13)
- 虚数とピーマン(2025.01.23)
- 理解と感嘆(2025.01.07)
- 「わかる」と「わからない」のあいだ(全文)(2025.01.07)
コメント