花としての言葉と音楽と
無二の音楽パートナーが天国へ行って、4年が経つ。
白築(長谷川)純 (1970-2019年/49歳)。
闘病の中で「大好きな紫陽花の咲く頃に逝きたい」と言った通りに行ってしまったこの季節、「花びらは散っても花は散らない」の言葉を思う。
花びらは散る。花は散らない。この(元は仏教思想家・金子大栄による)言葉は、倫理学者・竹内整一の著書で知った。
肉体すなわち物質としての「花びら」に対して、現象としての「花」は、その人の為したおこないであり、また、発したことばでもあるだろう。
モノは散っても、コトは受け取った人の中に残り、それは時が経って輝きを増すことさえある。彼女は、人と人を結びつけることに何よりもエネルギーを注いだ人だった。普段の生活にも、作る詞や音楽にも、それはいつも根底にあり続けた。
老若男女誰とも出会うや和気藹々と会話を弾ませて旧知の仲のようになってしまうのは、持って生まれた彼女の天性と、それを大切にする彼女の思いが合わさってのことだったろう。彼女が移住した島根でも、音楽活動に留まらない様々な縁に恵まれ、縁を繋ぎつづけた。そうしたたくさんの人たちの中で、それぞれが受け取った「花」は世代を重ねて咲きつづけていることと思う。
私とは1993年より音楽ユニット「mcasi mcasi」として作品作りやライブ活動を行い、2002年にはCDアルバム『ホコラ』をリリースした。
二人で作った楽曲たちもまた、根を広げ、葉を茂らせ、新たな可能性を繋いでゆくに違いない。
私信:
とらきち、空から聴いててな。
とらきち、空から聴いててな。
【補筆】
4年が経って、私の中でほんの少しだけ言葉になりました。
「mcasi mcasi」を聴いてくださった皆さま、あらためまして、どうもありがとうございます。
photo1:
photo1:
紫陽花(2019.6.30 東京で)
photo2:
mcasi mcasi CDアルバム『ホコラ』と、白築純エッセイ集『いつかまた、きっと会える!』(山陰中央新報社)
『いつかまた、きっと会える!』は、山陰中央新報と毎日新聞島根版に連載した純のエッセイを、夫の賢一さんが編集、2022年に発刊されたもの。
(賢一さん、ありがとうございます)
『いつかまた、きっと会える!』は、山陰中央新報と毎日新聞島根版に連載した純のエッセイを、夫の賢一さんが編集、2022年に発刊されたもの。
(賢一さん、ありがとうございます)
by 中村力哉
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