フォト

« たわいない呟き2014〜 | トップページ | 『相馬二遍返し』プログレッシブ・ロック・サウンド »

2015年8月 4日 (火)

音楽の何に曲名をつけるのか

(音楽考備忘録 vol.01)

Bw135film110217_0001


15歳の頃の自分との茶話

 〜1981年 夏〜



ところで君は音楽を聴くよね?

じゃあ、君の好きな曲を、何でもいいから一曲思い浮かべてみて。

思い浮かべた?
そしたら尋ねたいことがあるんだ。

その曲がその曲であるということはどのようにして言えるのだと思う?

え?質問の意味がわからない?

ええと、そうだな、たとえば、その曲はおそらく、
・ピアノで独奏したり
・オーケストラで演奏したり
・ロックバンドで演奏したり
・尺八と箏で演奏したり
・一人で歌ったり
と、まあ、いろんな形態で演奏することができるよね?

もしかしたら、中には「それは無理かも」と君が思う形態もあるかもしれないけれど、とにかくいろんな形態で演奏された「その曲」を想像できるだろう?

そうだとしたら、それら各々の音楽は「同一ではない」のに「その曲である」と君が判断するのはなぜか・・、という問いなんだけど。

もう少し質問を続けてもいいかな。

その曲はたとえば、
・和太鼓だけで演奏したり
・植木鉢2つだけで演奏したり
することは、できそう?

あるいは逆に、その曲はたとえば、
・和太鼓でなければ演奏できない
・コンピューターがなければ演奏不可能
というような、特定の何かを必須とする音楽だろうか?

え?「和太鼓だけで演奏できる曲なんてあるのか」だって?
もちろんあるよ。和太鼓組曲なんて、むしろピアノでの独奏が果たして可能なのかどうか。

要するに僕が訊きたいのは、「楽曲の同一性とは何か」ということなんだ。
二つの音楽を「同じ曲の別バージョンだ」と判断する場合と「別の曲だ」と判断する場合の境界をどう引いているのか、という問い。
何が同じなら「同じ曲だ」と思い、何が違ったら「別の曲だ」と思うのか。

学校の音楽の授業で、音楽の三要素というのを習っただろ?
メロディ、ハーモニー、リズムの三つ。

物事をどう切り分けるかは自由だから、この三要素に分けて音楽を捉えるのは、音楽の無数にある捉え方の中の一つに過ぎないけどね。
この三要素に分けることによって、音楽が見えてくる部分もあるし、逆にそれによって見落とされてしまうものもある。
たとえば音色という要素は、このモノサシからは切り捨てられているよね。

切り分け方は無数にあるわけだけど、いずれにしても、物事を何らかの要素に切り分けることは重要だよ。
なぜって、人間は現実世界を言葉で切り分けることによって様々な概念や想像する力を獲得したのだろうから。
現実を切り分けて捉えることができなければ、「現実に起きていないけれど可能性としてはあり得る世界」を想像することはできない。

もし音楽を要素に切り分けなければ、君は二つの音楽を「同じ曲の別バージョン」と認識することはできなくなる。
君が、初めて聴く音楽に「これはあの曲だ」という認識を持つことがあるのならば、それは音楽を要素に切り分けて捉えているからに他ならない。

ある音楽に曲名が付いている時、その音楽の何に対して曲名が与えられているのか。

そう。君がとっくに察している通り、多くの場合はメロディに対して曲名が与えられているわけだけよね。
ジャズでもロックでもJ-POPでも、つまりポピュラー・ミュージック周辺においては、音楽の要素のうちリズムでもハーモニーでもなく、メロディに対して曲名が与えられている。
だから、リズムが違っても、ハーモニーが違っても、楽器編成が違っても、テンポが違っても、メロディが同じなら「同じ曲」とされる。
逆に、メロディが違っていれば、その他の要素がすべて同じでも「違う曲」とされる。

これを「旋律至上主義」と呼ぶんだ。
まあ、僕が勝手に呼んでいるだけだけどね。

でも、世の中のすべての音楽がメロディに対して曲名を与えられるわけではない。
さっき言った和太鼓の曲の場合なら、リズムとその構成に対して曲名がついている。

音色の変化に曲名をつけてもいいし、広い宇宙の中には、メロディがあるにも関わらず「音の強弱の組み合わせ」に対して曲名をつけている星があるかもしれない。

ジョン・ケージの『4分33秒』という曲を知ってるよね?
これは、「約4分半の間、演奏家は何もせず、ただその間に聞こえた(たとえば客席の誰かの咳払いや、椅子の軋みとかの)音すべてを音楽として受け入れる」というコンセプトの曲なんだけど、つまり、メロディに曲名をつけたのではなく、音色やリズムなど何らかの音楽要素に着目して曲名をつけたのでもなく、音楽を生み出す(というより認識する)そのルールに曲名をつけた、ということなんだよね。

こうやって少し見渡しただけで解ることは、要するに、「何を以てその曲と看做すのか」は文化や文脈に依存して多様だということ。


さて、前置きはこれくらいにして、そろそろ本題に入ろうか。

え?「まだ前置きだったのか」って?

ええと、この話は「作曲と編曲のあいだ」というテーマに繋がるんだけど、それじゃ、続きはまた今度にしようか。

え?「結局のところ『音楽のどこに焦点を置くか、その価値観は人それぞれだ』という当たり前の話とどう違うのか」って?

まあ、煎じ詰めればそういうことなんだけどさ、もう少し丁寧に切り分けて一度言葉にしておきたいんだよ。
適当にかき混ぜているうちに、もしかしたら新たな知見が生まれるかもしれないだろ?

一般的に、僕たちはメロディに曲名がついていることを当たり前だと思っている。

メロディに曲名をつけたことによって、いったい僕たちは何を得て、何を失っているのだろうか。


     つづく(かも)


photo:
PENTAX LX+planar50/1.4+PRESTO400 (self development)


by りき哉

関連ログ:伝承と創出のあわいに(民謡のアレンジについて)



« たわいない呟き2014〜 | トップページ | 『相馬二遍返し』プログレッシブ・ロック・サウンド »

1: 随想録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 音楽の何に曲名をつけるのか:

« たわいない呟き2014〜 | トップページ | 『相馬二遍返し』プログレッシブ・ロック・サウンド »

カテゴリー