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2012年6月24日 (日)

流しそうめん初体験

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今日、ついに・・!!
念願の「流しそうめん」を初体験しました。

電動でグルグル回る「流しそうめん器」ではなく、本物の流しそうめんです。

想像以上の楽しさでした。

素麺だけでなく、ちくわとか、みかんとか、チョコボールなんかも流れました。(意外と素麺と合うんですね)

子供たちが大喜びで盛り上がったのはもちろんのこと、おそらく誰よりも深い喜びに浸っていたのは、他ならぬこの私だったのではないでしょうか。

というわけで、今日は流しそうめん記念日。


ちなみに、流しそうめん体験にどうしてそれほど喜んでいるのか、といいますと、こういうわけです。未読の方はどうぞ↓

流しそうめん考」と、「続・流しそうめん考

いずれも2年前のログです。
今日は自らの体験をもって、この論考が間違っていなかったことの確証を得た次第です。


写真3枚とも
PENTAX K200 + smcPENTAX DA 35mm F2.8 Macro Limited


by りき哉




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2012年6月18日 (月)

『この空の花 ―長岡花火物語』を観て

(5/25の日記より。備忘録として)


映画『この空の花 長岡花火物語』(大林宣彦監督)を観てきた。すごい密度だった。記録と表現の境界が大きく滲んで渾然一体となったよう。質感を音楽史の文脈に例えるなら、現代音楽とポピュラー音楽と民俗音楽を大きな器に入れてグルグルかき混ぜた感じ。心が大きく揺り動かされて、夢と現を行きつ戻りつしている。

熊本の「牛深ハイヤ節」が北前船で物資とともに佐渡へ運ばれて「佐渡おけさ」になり、それが津軽へ渡って「津軽あいや節」になった。当然だけど、文化は時間的にも、地理的にも連続している。その連続性を想像すること。この映画に共感したメッセージの一つは、そのことの大切さ。

【付記】
この空の花 - 「長岡映画」製作委員会 - 長岡ロケなび
http://www.locanavi.jp/konosora/

by りき哉

2012年6月 8日 (金)

あとがき:「クルマのマドは手回しで」

ログ「クルマのマドは手回しで」に関して、まったくもって蛇足かとは思いますが、万が一気付かれない場合があるといけないので、一応念のために補足しておきます。

(未読の方は本文を先にどうぞ→クルマのマドは手回しで


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【あとがき】

この小文(雑談)は、第一義には持論をストレートに述べたものであるのですが、それと同時に、「いま語るべき寓喩」として自分では意味付けています。

つまり、このお喋りにおいて、私はクルマのマドを一つの象徴として捉えて(も)います。
7年も前に書いた文章を今このタイミングで差し出したのは、そこに含ませた「語るべきこと」がタイムリーであると信じるからに他なりません。

今年(2012年)の夏の電気が足りるか足りないか、という話と、クルマのパワーウインドウの話は、もちろん直接には無関係です。でも、電気が足りるか足りないかは、つまるところ私たち一人ひとりの生き方の問題であり、価値観や思想において両者は深く繋がっていると私は感じています。

話を蒸し返しますが、パワーウインドウが便利である状況というのは、「一人で運転しているときの、運転席以外のマドの開け閉め」の他に、いったい何かあるのか、私には本当にわかりません。
そして、もしメリットがそれしかないなら、「そのメリットの恩恵にあずかるシーンはどんな頻度であるのか」「そのメリットのためにどれだけ別のデメリットを押し付けられているのか」「パワーウインドウがないと、どの程度不便になるのか」などと考えると、費用対効果も、欠点対利点も、まったく見合っていないと感じます。(例外があることは本文に記しました)

もちろん、あらゆる「文明の利器」を否定するような、極端なことを言っているのでありません。
たとえば家庭にある冷蔵庫は、そういう意味で言えば完璧に「見合っている」と思います。
カメラがピントや露出を自動で制御する機能を持ったことは無意味、とは思わないし、情報の共有や流通のためにインターネットは必要ない、とも思いません。

見合っているか見合っていないか、という線引きは明確にできるものではなく、なにより個々人の価値観や状況によって変わってくるものでありましょう。

クルマのパワーウインドウは、便利さや豊かさの価値基軸を根底から見直すための呼び水です。

タキシードをフォーマルだとするマナーは、真夏の東京でも頑に守り続けなくてはいけない価値観なのか(エアコンが今ほど必要とされているその前提をこそ、見直すべきではないのか)、ということを「自転車都市の思潮」(※1)に書きました。

「それが当たり前」と思っていることを、まずは「本当にそれは『当たり前』なのか」と問うこと。
そのためのモチーフの一つとして(も)、私としてはこれを差し出してみた次第です。

私たちがウッカリしているうちにいつの間にか当然としてしまった「過剰な利便」の一つの象徴が、パワーウインドウなのだと思えてなりません。


トップの写真
2011年夏、節電のため運転停止中のエスカレーター(東京・赤坂駅)
PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)

【あとがきのあとがき】

本文を読んでくださった方には、せっかくのウィットとエスプリに富んだ文学作品を野暮なことばで解説するような「言わずもがな」を述べまして、失礼しました。
(あれのどこがウィットとエスプリに富んでいたのか、どこが文学作品なのか、という批判はコメント欄からどうぞ。手をついてお詫びしますので)


※1「自転車都市の思潮
↑このログは複数の自転車専門サイトで紹介され、爆発的なアクセス数(当社比)を記録しました。
未読の方はぜひ!


by りき哉



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2012年6月 6日 (水)

六歳の六月六日に歩み出した道

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芸事は6歳の6月6日から始めると身に付く、という言い伝えに倣って初めてピアノ教室の門をくぐったのは、ちょうど40年前の今日。
今日はピアノ歴40年記念。(めでたいのか?)

40年前のそのときの光景や、どきどきわくわくしていた気持ちは、今でも鮮明に蘇る。
その頃の記憶でこれほどクリアに浮かび上がってくるシーンは、他に多くはない。
あの時、私はとてもわくわくしていた。
そして、自分が今この道を歩いていることの不思議さを、あらためて思う。

あれから、いろいろな音楽や、概念や、人と出会ってきた。
自分のパラダイムを大きく拡張してくれた出会いは、挙げていけばキリがない。
きっとこれからも、いろいろな出会いがあるだろう。

「芸事は6歳の6月6日から始めると身に付く」という言い伝えの、私は例証になるのか、それとも反例になるのか、という点は、視点の置き方によって判断の分かれるところである。モノサシによって「ピアノ八段」とも「弾けるうちに入らない」とも言える。

しかしいずれにしても、こうして一途に歩み続けることのできる道に出会えたことは、何よりも嬉しく、有り難いことだと思う。(やっぱり今日はめでたいのかも)

見渡す限り延々と続くこの先の道も、周りの景色も楽しみながら、自分の歩幅で歩いていく。



トップの写真
2011年2月17日 神奈川県民ホールにて
PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)


by りき哉

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