ログ「クルマのマドは手回しで」に関して、まったくもって蛇足かとは思いますが、万が一気付かれない場合があるといけないので、一応念のために補足しておきます。
(未読の方は本文を先にどうぞ→クルマのマドは手回しで)

【あとがき】
この小文(雑談)は、第一義には持論をストレートに述べたものであるのですが、それと同時に、「いま語るべき寓喩」として自分では意味付けています。
つまり、このお喋りにおいて、私はクルマのマドを一つの象徴として捉えて(も)います。
7年も前に書いた文章を今このタイミングで差し出したのは、そこに含ませた「語るべきこと」がタイムリーであると信じるからに他なりません。
今年(2012年)の夏の電気が足りるか足りないか、という話と、クルマのパワーウインドウの話は、もちろん直接には無関係です。でも、電気が足りるか足りないかは、つまるところ私たち一人ひとりの生き方の問題であり、価値観や思想において両者は深く繋がっていると私は感じています。
話を蒸し返しますが、パワーウインドウが便利である状況というのは、「一人で運転しているときの、運転席以外のマドの開け閉め」の他に、いったい何かあるのか、私には本当にわかりません。
そして、もしメリットがそれしかないなら、「そのメリットの恩恵にあずかるシーンはどんな頻度であるのか」「そのメリットのためにどれだけ別のデメリットを押し付けられているのか」「パワーウインドウがないと、どの程度不便になるのか」などと考えると、費用対効果も、欠点対利点も、まったく見合っていないと感じます。(例外があることは本文に記しました)
もちろん、あらゆる「文明の利器」を否定するような、極端なことを言っているのでありません。
たとえば家庭にある冷蔵庫は、そういう意味で言えば完璧に「見合っている」と思います。
カメラがピントや露出を自動で制御する機能を持ったことは無意味、とは思わないし、情報の共有や流通のためにインターネットは必要ない、とも思いません。
見合っているか見合っていないか、という線引きは明確にできるものではなく、なにより個々人の価値観や状況によって変わってくるものでありましょう。
クルマのパワーウインドウは、便利さや豊かさの価値基軸を根底から見直すための呼び水です。
タキシードをフォーマルだとするマナーは、真夏の東京でも頑に守り続けなくてはいけない価値観なのか(エアコンが今ほど必要とされているその前提をこそ、見直すべきではないのか)、ということを「自転車都市の思潮」(※1)に書きました。
「それが当たり前」と思っていることを、まずは「本当にそれは『当たり前』なのか」と問うこと。
そのためのモチーフの一つとして(も)、私としてはこれを差し出してみた次第です。
私たちがウッカリしているうちにいつの間にか当然としてしまった「過剰な利便」の一つの象徴が、パワーウインドウなのだと思えてなりません。
トップの写真
2011年夏、節電のため運転停止中のエスカレーター(東京・赤坂駅)
PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)
【あとがきのあとがき】
本文を読んでくださった方には、せっかくのウィットとエスプリに富んだ文学作品を野暮なことばで解説するような「言わずもがな」を述べまして、失礼しました。
(あれのどこがウィットとエスプリに富んでいたのか、どこが文学作品なのか、という批判はコメント欄からどうぞ。手をついてお詫びしますので)
※1「自転車都市の思潮」
↑このログは複数の自転車専門サイトで紹介され、爆発的なアクセス数(当社比)を記録しました。
未読の方はぜひ!
by りき哉
記事へコメントくださる方へ
最近のコメント