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2011年11月 6日 (日)

コレクターは何をコレクションしたのか

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現代アート(美術)をコレクションする悦楽について書いたコラムを、新聞で読んだ。

「コレクターの端くれ」を自認するその筆者は、以前にボーナス全額を注ぎ込んで、あこがれの(既に著名な)アーティストの作品を買ったそうである。そして、あこがれのアーティストの作品が、がんばれば自分でも買えた、ということに感動し、以来、手が届く若手の作品を買うようになったそうだ。

そこまでは何気なく読んでいたのだが、その先の文章で驚いた。
「しかし、買ってはみたものの、その若手は鳴かず飛ばずのまま、どこかへ消えてしまったりすることも。作品だけがさびしく残され、コレクターとして審美眼がなかったのかと悩んでしまう」

えっ・・?
ああ、そうか、つまりこの人は、自分が本当に感じたから買ったのではないのだ。将来その作家が有名になるだろうと踏んで、(世間的な)価値が上がることを見込んで買っているのである。
だから、作家が有名になればその買い物は「成功」だし、そうでなければ「失敗」であって、その作品は「ゴミ」になる。
(コラム文中で「失敗」とか「ゴミ」と表現していた)

もちろん、ビジネスとして考えるなら、先物買いという行為は当たり前のことであり、それで良い。

しかし、アートを見たり感じたりすることに主眼をおくならば、この筆者のしていることはそれとは全く相容れない。
最初のボーナスでがんばって「あこがれのアーティストの作品」を買ったときも、あこがれていたのはそのアーティストにでも作品にでもなく、そのアーティストなり作品なりの世間的評判に対してであり、だから己の得た「感動」も「悦楽」も、それは単に、高嶺の花と思っていた高級ブランド品を自力で買えた、という子供じみた自己満足レベルのものでしかなかったに違いない。

世間一般で評価されることと、自分自身が感じることと、どちらを信じるのか。どちらを大切にするのか。
美しいか美しくないか、その判断を自ら放棄し他人に委ね、果たしてそれでその人は「生きている」と言えるのだろうか。

「生きる」とは、自分自身が何かを感じる、ということであると思う。



トップの写真
PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)

by りき哉



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