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2011年8月19日 (金)

現実を自ら紡ぐために

(7月14日と22日のメモ断片を一つに)


「言葉が足りないとサルになる」(岡田憲治著/亜紀書房)を読了。
音楽を専門にする私にとっても、また、3.11以降の混迷が続く今現在の日本に暮らす一社会人としての私にとっても、この本の「言葉が世界や現実を作る」という一貫したメッセージは、創作も政治も含めた己の人生に対する応援歌として共鳴した。

「作品を仕上げるというのは、別のいい方をしますと、世界の不完全情報という制約の下で、自己表現の一回性という条件を踏まえて、『こうしよう!』と自己決定をすることです。(中略)言葉なきところには自己決定は存在しません。」(同書より)

「そもそも、そうした自己決定を、人間は言葉抜きですることができるのでしょうか?私からすれば、それはどう考えても不可能です」という同書の一文に大きく頷いた。私も同じ問いを、昨年ここに書いていたのを思い出した。

その拙稿から一部を再掲する。

以下、転載。
言語より先に音楽は生まれるだろうか。そもそも何かを感じるとき、言語なしにそれを感じられるものだろうか。
感じたことを音楽に昇華させようとする時、音楽インスピレーションは言語の束縛から逃れられないのではないか。ここで言語とは、日本語とか英語とかスワヒリ語とかの具体的な話し言葉や文章などだけを指しているのではない。言語とは論理であり、論理性を抜きに美意識は生まれないであろう(と思う)。
空腹であるとか、眩しいとか、己の生存に直結する基本的情報ならば、ことばを獲得する前の新生児も感じている。しかし、「あの空間のバランスが美しい」とか「色が美しい」とか、そういうことを言語の力を借りずに感じることができるのか。(昨年5月の拙ブログ「言語より先に音楽は生まれるか」より一部転載ここまで)

鳥の雌が鳴声の美しさや羽の模様の美しさを以て雄を選ぶのは、その美しさが環境適応力の現出であるから、という進化論の見地からすれば、「美しさを感じる力」は「言葉以前に私たちに備わっている本能・感性」なのかもしれない。だがその感性を無限に拡げ、創造力へと昇華したのは言葉ではないだろうか。

そしてもう一つ、「政治」についての言及。
同書の、「ある認識を『ということになっている』という『いまさら言うまでもない前提』にさせることを『政治』と言います」との一文は特に痛快だった。「現実」の解釈をコントロールすることが政治なのだと。
なるほど。

政治とマスメディアと一個人の境界の曖昧さを、ふと思う。すべては連続して繋がっている。つまるところ、私たち一人一人が言葉をどれだけ丁寧に且つ大量に扱うか、そのことこそが、この社会が現実に歴史を刻んでいく原動力になるのだなぁ、と改めて。

「現実」とは与えられるものではなくて、自ら作り出していくものなのだ。

by りき哉

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