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2011年8月26日 (金)

ピアノで織りなす岩手県民謡「釜石浜唄」

「一粒のちから(東北地方の民謡に和声を付けることで復興の力になれたらうれしい)プロジェクト」の第四弾です。

消えてしまった風景を呼び戻すために。復興を祈る私たち一人一人の想いに、この音楽が少しでも寄り添うことができたなら幸いです。

日本の民謡はもともと和声(という概念)を持たない音楽ですが、そこにピアノによるハーモニーを加え、受け継いできた伝統と文化を大切にしながら、新たな解釈とともにアレンジ・演奏しました。

この唄は、三陸漁業の水揚港として、また明治時代からは日本の製鉄業発祥の地として急速に繁栄した釜石の、沢村遊郭に生まれたお座敷唄です。
歌詞は大正初めに尾崎神社の宮司・山本茗次郎が改作したと伝えられ、花柳界に広く歌われるようになった俗曲風の民謡として貴重な存在となっています。

唄に出てくる尾崎神社は、奥の院が尾崎半島の先端に鎮座し、この地の海・漁業の守り神として、古く鎌倉期より以前から祀られてきました。


岩手県民謡「釜石浜唄」

奥で名高い 釜石浦は
いつも大漁で 繁昌する

おらが看板 朝日にかもめ
波にくじらの 浮く姿

時化を覚悟の 荒灘かせぎ
肌の守りは 尾崎神社(おざきさま)

(歌詞の注釈を本記事の末尾に記載しています)

故郷を想う気持ちは、未来へ向かう私たちの大きな力になると信じています。
この地で育まれてきた唄を後世へ伝えていくこと。
その力のささやかな一粒になれればと願っています。


この動画の演奏者
 美鵬成る駒(唄)
 佐藤錦水 (篠笛)
 中村力哉 (和声付け・ピアノ・鍵盤ハーモニカ)

2011年8月14日 東京 Hocola Studio にて録音

動画の背景写真:
2011年4月、東京にて。
PENTAX LX + planar 50/1.4 + 400TMAX (self development)


[歌詞注釈]

一番の歌詞の「奥」は、資料によっては「奥州」と書いて「おく」と読ませているものもあります。
尾崎神社の宮司・佐々木裕基氏からは、これは「奥州」という意味ではなく、尾崎神社の奥宮のことを指している可能性が高いのではないか、とのお話もありました。


二番の歌詞の「看板」は、資料によっては「印伴纏」「印伴天」などの表記や、「甲板」と書いて「かんばん」と読ませているものも見受けられます。
「甲板」は恐らく、「看板」の誤りかと思われますが、これも定かではありません。

三番の歌詞の「尾崎神社(おざきさま)」または「尾崎様」は、ほかに「お崎様」の表記も見られますが、「崎」とは「海に突き出た土地」で、「海に突き出た場所には、海の神 が宿っている」という信仰が広くあるので、いずれにしても、この地の海の守り神である尾崎神社のことを唄っていると解釈できると思います。


[追記]

当プロジェクトの唄を、以下にまとめてあります。

ピアノで織りなす東北民謡~Pray for Japan~

その他の公開済みの唄
Pray for Japan ピアノで織りなす福島県民謡「相馬二遍返し」
Pray for Japan ピアノで織りなす宮城県民謡「十三浜甚句」
Pray for Japan ピアノで織りなす茨城県民謡「網のし唄」


【追記】(2015.11.30~)
● 温かなメッセージをたくさん頂きまして、2015年秋、CDアルバムの形にしました。
 詳細はこちら

● アレンジ(和声付け)について、少し言葉にしました。
伝承と創出のあわいに

● 当プロジェクトのwebsiteを作りました。(12/20)
 awaibito.com


by りき哉


2011年8月25日 (木)

秋元順子ジャズライブ2011

秋元順子さんの、今年前半の(歌謡曲の)コンサートが7月に一段落しまして、昨夏に続きバンドリーダーを務めさせていただいているジャズライブが、今回は大阪ビルボードを皮切りにスタートし、名古屋ブルーノート2daysと、東京コットンクラブ2daysの初日を終え、本日は3カ所10公演の最終日です。

回を重ねるごとにますますバンドの一体感も深まり、(MCのダジャレも含めて)楽しく濃密なライブが繰り広げられています。
順子さんも、とても楽しそうに歌っています。
(これでまたジャズライブの間が空いてしまうのが寂しくて勿体ない・・)

さてと、千秋楽、いっそうゴキゲンにスイングしてきたいと思います。

Imgp3491

写真は、東京コットンクラブ初日のリハーサルにて。
ピアノに座ったところから(ピアノが休みの32小節の間に急いで)撮った1カット。

備忘を兼ねて、今夏のジャズライブのパーソネル等を記載しておきます。


秋元順子 Summer Jazz Live

2011年8月16日(火)
ビルボードライブ大阪

2011年8月18日(木)
2011年8月19日(金)
名古屋ブルーノート

2011年8月24日(水)
2011年8月25日(木)
コットンクラブ東京
(このコットンクラブのページの下の方には、2009年にNHKで公開収録・放映されたジャズライブの動画が貼られています。ピアノトリオでの演奏です)

vocal   秋元順子
piano   中村力哉
bass    和田弘志
drums   長谷川清司
sax     竹村 茂

追記
楽日を、楽しく終えました。
各会場での、沢山の声援どうもありがとうございました。

順子さんの今夏のジャズライブはこれにて幕を閉じ、次は9月初めに北海道・北見にて、ギターとピアノのデュオ編成による二日間のコンサートです。

by りき哉



復興と鎮魂を願う私たち一人一人の想いに添えたらと、東北地方の(元来は単旋律である)民謡に和声を付け、まずはYouTubeに公開していく試みをしています。
ピアノで織りなす東北民謡~Pray for Japan~
(YouTube Rikiya Nakamura Official Channel の再生リストより)

2011年8月20日 (土)

熱さを喉元のままに

もう8月も後半に差しかかりました。
放射能汚染のこと、エネルギー問題のこと、被災地支援のこと。相変わらず、それらについての情報を求めることに多くの時間を割かざるを得ない毎日。

この期に及んでなお原発を推し進めようとする強大な勢力があり、一部の経済学者たちは旧態依然としたモノサシのまま「経済停滞は放射能汚染よりも恐ろしい」と本末転倒な主張を繰り返し、政治もメディアもその本来的な役割を果たすことができていないばかりか、それを放棄しているようにすら見える現況に於いて、この社会がどこへ向かおうとしているのかを必死に俯瞰し、自分の為すべきことと、語るべき言葉を探し求めつづける日々です。

一番恐ろしいのは、私たちが、喉元を過ぎて「熱さ」を忘れてしまうことだと思います。

なかなか落ち着いて文章を書く時間がないので、とりあえず7月以降の呟きより一部を転載しておこうかと。

以下、話題はそういった社会の大きな問題から個人的な仕事(音楽)のことまで含みつつ、雑多でまとまりありませんが、しばらくブログ更新が滞っていたので、備忘を兼ねて貼っておきます。


[7月1日]
相馬二遍返しを聴いて下さった方から先日メールを頂きました。「とても素敵なアレンジで、ぜひこれで踊りたい」と、札幌を拠点に活動なさっている舞踏家の西崎鼓美さん。7/24千歳市民文化センターでの東日本大震災支援チャリティーイベントで、舞踊とこの音楽がコラボレートされます。


[7月3日]
札幌にて、舞踏家の西崎鼓美さんとお会いしました。和・洋から即興までに渡る表現者同士、新たな共演を確信し合うとても嬉しい出会いとなりました。


[7月8日]
和太鼓奏者・美鵬成る駒さんのブログに、ピアノで織りなす茨城県民謡「網のし唄」レコーディングでの秘話とお宝フォトが。
Narukoma Biho BLOG「網のし唄」


[7月14日]
管首相が初めて公に「脱原発宣言」をした7月13日の翌日、各紙がそれについて社説でどう語ったか抜粋。
朝日新聞:「首相の方針を歓迎し、支持する」
東京新聞:「総発電量に占める原子力の割合を段階的に下げ、原発のない社会を目指すという、首相が示した方向性には同意する」
読売新聞:「安全確保を徹底しつつ、原発利用を続けることが、経済の衰退を防ぐためには欠かせない」


[7月14日]
本日、中目黒「楽屋」にてバンドネオンのバンドbando-bandライブです。不思議な風景の広がる音楽。bn大久保かおり pf中村力哉 bマーク・トゥリアン perc浜野律哉


[7月17日]
saxの本多俊之さんとデュオで初共演(吉祥寺サムタイムにて、アニドウ主催のイベントで)。底抜けにハッピーで、私もずっとニコニコしっぱなし、縦横無尽の楽しいセッションでした。意識が爆発的に広がっていくと、音楽はどこまでも展開していく。心の柔軟性と瞬発力を、これからも大切にしよう。


[7月25日]
秋元順子さんジャズ・ライブのリハを無事終えて一安心。今年も(ジャズ・ライブの)バンドリーダー務めさせていただいてます。8月「ビルボードライブ大阪」、「名古屋ブルーノート」2days、「コットンクラブ東京」2days。


[7月28日]
舞踏家の西崎鼓美さんが、7/24千歳チャリティー公演で「相馬二遍返し」を踊ってくださいました。「皆さんとてもいろいろな感想を下さいました。東北をイメージしたり、心穏やかになったり、皆さんそれぞれにジーンとしてくださいました」とのことです。
9月10日には文化団体協議会のフェスティバルで、今度は和洋バージョンで踊ってくださいます。


[7月28日]
素晴らしいコード付けできた!和声を付けた「釜石浜唄」のレコーディングに向けて大きく前進。十日以上暗中模索の末、ついに降りてきました。要は己が納得できるかどうかなのだけど。明日になって聴いても納得できますように。


[7月30日]
それにしても、利他から生まれた真の怒りを纏った肉声は、これほどにも心に響くものなのか。全内容の極めて重要であることは勿論のこと、演奏家として「常にここまで魂を込めて音を紡がねば」と思う程だ。児玉教授の国会答弁。このYouTube動画、もし未見でしたら、必見です。
2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦


[8月3日]
本日は渋谷・JZ Bratにて、津軽三味線・工藤武率る「SHAH」ライブです。ロック+民謡+ジャズ+エスニックなオリジナル歌を、「和魂洋奏」でお届けします。


[8月9日]
給食費を払ってるのだから「いただきます」と言わせるのはおかしい、という親からのクレームを受け、笛や太鼓を合図に食べ始めるようにした学校があるとの話(朝日新聞の声欄)は本当?無知な親は仕方ないとして、「いただきます」の意味を知っている人は学校にも一人もいなかったの?私たちは、命をいただくんだよ。

ショックなのは、学校が唯々諾々と応じたこと。「いただきます」の意味すら誰からも教えてもらえない環境で育った子供たちは、一体どんな未来を描くのか。

食べること(つまり生きること)は命を頂くこと。「いただきます」は、人間の労働に対する感謝である以上に、人力の及ばぬ「命」への畏怖と畏敬の念を込めた、祈りの言葉だ。すべての命は繋がり、私たちは生かされている。子供たちに伝えなくてはいけない最も大切な言葉が「いただきます」だ。


000003
  Minolta AUTOCORD(Rokkor75mmF3.5)+ Ektar100



[追伸]
先日、東北民謡に和声を付ける「一粒のちから」プロジェクト第4段として、岩手県民謡「釜石浜唄」のレコーディングをしました。
近日中に公開します。

既に公開している3作品は、こちらにまとめてあります。
ピアノで織りなす東北民謡~Pray for Japan~
(YouTube Rikiya Nakamura Official Channel の再生リストより)


by りき哉

2011年8月19日 (金)

現実を自ら紡ぐために

(7月14日と22日のメモ断片を一つに)


「言葉が足りないとサルになる」(岡田憲治著/亜紀書房)を読了。
音楽を専門にする私にとっても、また、3.11以降の混迷が続く今現在の日本に暮らす一社会人としての私にとっても、この本の「言葉が世界や現実を作る」という一貫したメッセージは、創作も政治も含めた己の人生に対する応援歌として共鳴した。

「作品を仕上げるというのは、別のいい方をしますと、世界の不完全情報という制約の下で、自己表現の一回性という条件を踏まえて、『こうしよう!』と自己決定をすることです。(中略)言葉なきところには自己決定は存在しません。」(同書より)

「そもそも、そうした自己決定を、人間は言葉抜きですることができるのでしょうか?私からすれば、それはどう考えても不可能です」という同書の一文に大きく頷いた。私も同じ問いを、昨年ここに書いていたのを思い出した。

その拙稿から一部を再掲する。

以下、転載。
言語より先に音楽は生まれるだろうか。そもそも何かを感じるとき、言語なしにそれを感じられるものだろうか。
感じたことを音楽に昇華させようとする時、音楽インスピレーションは言語の束縛から逃れられないのではないか。ここで言語とは、日本語とか英語とかスワヒリ語とかの具体的な話し言葉や文章などだけを指しているのではない。言語とは論理であり、論理性を抜きに美意識は生まれないであろう(と思う)。
空腹であるとか、眩しいとか、己の生存に直結する基本的情報ならば、ことばを獲得する前の新生児も感じている。しかし、「あの空間のバランスが美しい」とか「色が美しい」とか、そういうことを言語の力を借りずに感じることができるのか。(昨年5月の拙ブログ「言語より先に音楽は生まれるか」より一部転載ここまで)

鳥の雌が鳴声の美しさや羽の模様の美しさを以て雄を選ぶのは、その美しさが環境適応力の現出であるから、という進化論の見地からすれば、「美しさを感じる力」は「言葉以前に私たちに備わっている本能・感性」なのかもしれない。だがその感性を無限に拡げ、創造力へと昇華したのは言葉ではないだろうか。

そしてもう一つ、「政治」についての言及。
同書の、「ある認識を『ということになっている』という『いまさら言うまでもない前提』にさせることを『政治』と言います」との一文は特に痛快だった。「現実」の解釈をコントロールすることが政治なのだと。
なるほど。

政治とマスメディアと一個人の境界の曖昧さを、ふと思う。すべては連続して繋がっている。つまるところ、私たち一人一人が言葉をどれだけ丁寧に且つ大量に扱うか、そのことこそが、この社会が現実に歴史を刻んでいく原動力になるのだなぁ、と改めて。

「現実」とは与えられるものではなくて、自ら作り出していくものなのだ。

by りき哉

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