梅雨空への呟きより
東京は梅雨まっただ中です。
3.11からは100日を過ぎました。
二つ前のログで予告した話は、すみません・・まだなのですが、最近のつぶやきからピックアップしたものを転記してみました。
以下、箇条書きにて。
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「節電に協力するため通常の8割程度の本数で運転しています」というアナウンスに、まるで誰か他人のために協力するかのような口調だ・・と嫌悪を覚えたのは私の過剰反応だろうか、と悩みながら電車を下りた。
受験勉強でもダイエットでも、自己実現への自身の努力を「協力する」とは言わないだろう。
ある事柄を、我が事として捉えられるか、他人事として捉えるか。人(企業)としてのありようは、そういう所に現れる。
その姿勢は、ミュージシャンであれば楽器を通して演奏にも滲み出る・・というよりも、それこそがその人の音楽になる。
いま日本で暮らす私たちにとって節電は「自分が受験勉強するのと同じくらい自分自身にとっての事柄なのだ」と一人一人が実感できなければ、この社会が前進することは難しい。
ちなみに「節電」というキーワードは節電そのものだけでなく様々な事柄を代表している、ということは言うまでもない。
「ステテコが売れまくり」(http://bit.ly/mTNlY7)という記事冒頭の「大幅な電力不足と冷房自粛で、今年はこれまで経験したことのない“暑い夏”がやってきそうだ」という他愛ない枕に首を傾げる。
「これまで経験したことない」って、ちょっと前まで(私が子供だったころはまだ)冷房のないことが当たり前だったのになぁと。
「反原発派の多くは密かに原発事故を望んでいただろう。自分の主張の証明になるからだ。私も電力不足で大停電が起きることを望んでいる」と言う人も居て呆れたが、「社会へ貢献したい」という動機が根底になければ「議論の為の議論」にしかならない。
いったい何を誰と戦っているのか。
今の豊かな電気生活の中で、「真夏にセーターを着込まないと寒くなるほどに冷房を効かす事などを一例とした私たちの習慣・価値観自体を見直してみましょう」という辺りは皆で共感できる筈、と私は希望を持ってもいますが、果たして如何に。
5歳の息子が今しがた玄関を出るときに母親に話しかけた「ねえ、階段で行こ。階段は呼ばなくてもいつでもあるから、エレベーターより早いよね〜」という言葉に、何かとても大切なことが含意されているような気がした。
気のせいだろうか?
以上、最近(5月以降)のメモ書きより一部抜粋。
写真 1枚目:2011年3月7日
2枚目:2011年5月7日
PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)
text & photo by りき哉
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