魔法などはなく、言葉が一陣の風となる〜持続可能エネルギーへ
今は2011年の春。
ほんの少し前までは、携帯電話もインターネットもなかった。
私が子供のころはクーラーは余程の裕福な家にしかなく、電車やバスで冷房車に遭遇することは滅多にない幸運なことだった。
「セブンイレブン」という名のコンビニエンス・ストアが日本に登場したときには、朝7時から夜11時まで営業していることに驚嘆した。
便利さに慣れてしまうと、それがない生活なんて成立し得ないように感じてしまう。
いつの時代もそれが普通だったのだけどなぁ、としみじみ思ったりする今日この頃。
震災・原発事故発生から50日を過ぎ、もう五月、新緑の季節だ。
福島では懸命の作業が続いている。
今回の一大事により私たちの価値観が根底から揺らぎ、しかしこのゆらぎは世界がより良くなる方向に作用するのではないかという予感を、私は「希望」と書いた。
一方、これほどの一大事を経験してもなお頑に何も変わるまいとする風潮の雲行きを、私は「絶望」と書いた。
メディアやネット上には、さまざまな立場からの情報や見解が溢れている。
エネルギー問題について考えることは、世の中のあらゆる事象を考えることになる。
物事を測るモノサシは無数にあり、どこまで広い視野を持てるか、ある事柄をどこまで深く理解できるか、そのことを思うと気が遠くなるほどだ。
すべては複雑に絡み合い、一言で明快に表せる解などあろうはずもないが、私たちの社会全体が進もうとする方向は自らの意思で選び取っていかなくてはいけないと思う。
メディアやネット上での様々な議論を見ていて、ひとつ残念で勿体ないと思うのは、「反原発派」や「推進派」といった言葉の定義が曖昧であるがために、とても不毛な言葉の投げ合いが繰り返されていることだ。
「あなたは原発に賛成か反対か」と問う世論調査に答えようとするとき、この定義の曖昧さはどれくらい配慮されているのだろうか。
「脱原発社会を目指そう」という声に異を唱える人たちがいる。
その中には利権を享受したいなどの個人的な理由で発言している人たちが含まれていることはさておき、彼らの主張は、何らかの根拠を示した上で「だから今の時点では原発は必要」というものであることが多い。
「今の時点では」という条件付きで原発推進を語るのであれば、「今」の意味するところが「今後10年」であれ「今後100年」であれ、それは「いずれ条件が整えば原発を廃止するに越したことはない」ということであろう。
それは「長期的には脱原発を目指したい」ということであり、批判の対象としている「反原発派」の主張と同じである。
「推進・現状維持」派とは「原発への依存度をより増やすべき、あるいは経年による廃炉と同数だけ新たに建設し続けて現状を維持すべきで、持続可能エネルギーへシフトする努力は一切無用」という立場であり、一方「エネルギーシフトの努力をしていこう」という立場はそのロードマップの違いに関わらず皆「反原発」派である、という定義付けの下に私自身は反原発派を標榜し、言葉を発している。
「推進」「現状維持」「反原発・脱原発」という言葉は、字義通りにとらえればそういう位置づけになるだろう。
「反・反原発派」が「反原発派」へ向ける、「代替案を示せ」「自然エネルギーはまだ原発の代用となるレベルではない」という批判は、何の意味も持たない。
太陽エネルギーや風力といった自然エネルギーの可能性を伝える研究データは多く目にすることができるが、もしそれが誤りで実際にはまだ代替エネルギーとなり得ないのだとしたら、「ではその研究開発を加速させましょう、あらゆる可能性を探るべく政治で予算作りや法整備などをして、皆の英知を結集していきましょう」という主張を、私を含む多くの「反原発派」はしているのだ。
経済や国際関係や技術的課題など、さまざまなバランスの考量を疎かにして良い、などということは誰も言っていない。
つまり、実は目標を共有している二者が、片や「反原発派」を名乗り、片や「推進派」を名乗り、同じことを別のことばで言い合っている議論が多いのではないだろうか。
このすれ違いは、「脱原発をどうやって実現するか」という本筋が論じられる前に問題を停滞させてしまう負の力として作用する。
この言葉の解釈をめぐる混乱が、意図的に利用されることで印象操作として機能している蓋然性に、私たちは注意する必要がある。
「過剰反応だ」「文明の放棄につながる」「石器時代に戻るつもりか」「今回の事故で放射線による死者はでていない」「飛行機や車の方が死亡事故は多くて危険」「今すぐ止めても危険がすぐなくなるわけではない」といった的外れな投げかけをすることで、「反・反原発」を唱える人たちはいったい何を守ろうとしているのだろうか。
その言動が、いったいどんな貢献を果たすのだろうか。
原発によって利権を享受する特別な立場にいるわけでなく、時間のスパンをどう取るにしろ持続可能エネルギーへシフトする努力をする心づもりがあるなら、「脱原発へ向けて舵を切ろう」という声に釘を刺す言葉は無用である。
社会が大きく前進しようとするときに、一人一人の声は小さくともその声を上げて集めて行くことは必要であり、そのためにデモという表現も大きな意義があるし、その中に少数の極論があったとしても、それを指差していちいち重箱の隅をつつくことは建設的な態度ではない。
唯一、原発を推進する意見に一理を見出せるとしたら、それは「原子力というテクノロジーの可能性を求め続けたい」という、人類の本性ともいうべき純粋な「飽くなき知への探究心」による動機であると思う。
しかし、使用済燃料の今後長い年月に渡る管理のためにも、いずれにしろ原子力の研究自体は継続する必要があるはずだ。
問題は、原子力を生活のエネルギーとして使うことは今現在の私たちの科学知識・技術ではどうやら時期尚早であろう、ということである。
今の私たちは、通常の運転で出る放射性廃棄物の片付け方もわからないまま、それを後世へ丸投げすることしかできない。
このことをどう感じるのか、倫理が問われているのだと思う。
そして今、持続可能なエネルギーへの意欲的な取り組みとともに、更にもっと根源的に突きつけらている課題は、社会全体として便利さと目先の経済発展を第一義に据え続けてきた姿勢を省みることなのだと思う。
その反省を「科学技術の進歩を沈滞させることだ」と看做すのは妥当でない。
どちらが前向きなのか。
他者への共感と信頼に立った道はどちらなのか。
実現の難しさを語るとき、その根拠を支える前提自体を疑ってみる必要があるのではないだろうか。
必要な量だけ発電しようとすれば、その「必要な量」は際限なく増していく。
「得られる電力でどう暮らすか」を工夫することに社会的リソースを注ぐと、私たちの感性はどんな風に広がっていくだろう。
一挙解決の魔法があるのではなく、一人一人のささやかな意識と言動が、エネルギー問題という社会の根幹をドライブしていくのだ。
私は、どんなにささやかであろうと、生身の声を発していくことが一陣の風になるのだと信じる。
写真3枚組 「太陽の恵み」
1,3:PENTAX LX+planar 50/1.4+400TMAX(self development)
2:PENTAX LX+smc M50/1.4+400TX(self development)
text & photo by りき哉
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鋭いご指摘、見事に言葉にされましたね。かなり推敲されたことと思います。いつもモヤモヤを代弁して下さりありがとうございます。一字一句頷きたくなる所だらけで、結局、同じ事を言葉を変えて述べる事になるかもしれませんが、ご了承下さい。
>「不毛な言葉の投げ合い」「的外れな投げかけ」「無用に釘を刺す」「重箱の隅をつつく」
同義語に「挙げ足を取る」「言葉尻をつかむ」「空理空論」とありますが・・・。私もこんな記事 http://pandes.jugem.jp/?eid=573 書いた事あるんですが、人間て「意味の無い批判で相手をやりこめる」のが本当は大好きなんですよね。「自分が偉い」っていとも簡単に錯覚できるし。「優位に立ちたい」って「エゴ」がそうさせるのか(「的外れな投げかけで守ろうとしているもの」も「エゴ」???)。
結果、『本来、違う意見同士がまずはありのままに「今の時点や過去の事象」からの持論を公開した上で、協力し合って「これから(未来)」の事を考え合う民主的な場』であるはずの議論が、『枝葉のレベルで目先の勝敗を競うバトル・ショー』みたいになってしまうんじゃないかな(原発の事に限らず世の議論全般的に)。
> 本筋が論じられる前に問題を停滞させてしまう負の力として作用する。
ほんと。「前向き」じゃないですね。
「目指すベクトルが違うだろーー」とか言いたくなる私も、いざその場にいたらそんなエゴのかけらもないような「聖人君子」になれるかどうか。でも人間には理性があるから極力そっちに走らないように議論前に皆で宣誓すれば良いんですよね(笑)。
『我々はエゴを克服し、謙虚な姿勢で持論を公開し、異論の「枝葉」でなく「幹」の部分に共通点を見出すよう努め、「一地球人メンバーとして新しい未来作りに協力し合う」気持ちで臨む事を誓います。』とかね。(私のブログにも書きましたが)
「無責任に言い放つ」のでなく「(万人が賛成する訳ではないかもしれないというリスクは負いながらも)責任と誠意を持って謙虚な姿勢で、あくまで未来への貢献を思って発言する」ようにありたいものです。
「議論」のあり方うんぬんについては私のブログにいただいたコメント http://pandes.jugem.jp/?eid=585#comments にお答えする形でもさんざん熱く語ってしまったので、この位にしておいて、と(笑)。
本筋(幹)はコレ ↓ ですよね!
> 問題は、原子力を生活のエネルギーとして使うことは今現在の私たちの科学知識・技術ではどうやら時期尚早であろう、ということ
> 社会全体として便利さと目先の経済発展を第一義に据え続けてきた姿勢を省みること
そう。「白」だ「黒」だ、言ってる場合じゃなく、白派も黒派も結局はこの2つの本筋に行き着くわけだから、旧態依然の方法以外に新たな道はないものか、「英知を結集して」模索してきたい所です。専門家や上に立つ方々任せでなく我々個人も参加して声を発して。(その過程で「実現の根拠を支える前提自体を疑ってみる」という柔軟性も必要でしょうね。)「価値ある声」ならば色々な方面からも聞いてみたいし。
で、とどのつまり「一陣の風になるべくささやかな生身の声」というのは「エゴを克服し理性的」であると前向きな波動を帯び説得力もあるんだろうな、というのが私の中での結論です。
大変長々と失礼致しました。m(_ _)m
投稿: yuki | 2011年5月 8日 (日) 12時41分
yukiさん
ご賛同の表明どうもありがとうございます!
お察しの通り、推敲はいつもより丁寧だったかもしれません・笑
今回は特に、少しでも多くの人に伝わることが、何よりの願いだったので。
>人間て「意味の無い批判で相手をやりこめる」のが本当は大好きなんですよね。
>「自分が偉い」っていとも簡単に錯覚できるし。「優位に立ちたい」って「エゴ」がそうさせるのか
そうですね。
今回の記事の下書きで、「その言動が、いったいどんな貢献を果たすのだろうか」に続く文として最後まで残すか削除するか悩んで削除した一文は、こんなのでした。
「非常事態に於ける己の冷静さをアピールしたいのなら、それも良いだろう。」
まあ、これでも精一杯「温和な」言い方を考えたつもりではありましたが、皮肉を言っても仕方ない、というか大人げないかなと思って削除しました^^;
誰かを非難することが目的ではないですからね。
(って、せっかく削除したのにここに書いちゃったらダメじゃん^^;)
この度の原発の議論に於いては、脱原発を唱える人は純粋にそのために発言しているのに対して、それに異を唱える人は「議論のための議論」をしている人が多いように見えます。
枝葉での勝負なんかに力を注がないで幹の部分で共感できれば、現実的な議論を経て前進できるはずですよね。
「敵味方」を言うなら、一番の敵は無関心層かと。
そして、「本筋(幹)はコレ ↓ ですよね!」と指摘くださった二点。
まったくその通りです。
その二点です。
今回の記事は「原発問題について」ではなくて「原発問題の議論について」であったわけで、そういう意味でこれは私が本当に書きたいことの「前書き」に過ぎません。(長文だったけど)
一点目の方は既に多くの人に共感されていると思うので、次回(かどうかわからないけど、できれば近いうちに)、より本質的なことと思われる二点目の方について、感じているところを書きたいと思ってます。
(前書きよりはコンパクトにしたいと思ってます・笑)
本記事を貴姉ブログで紹介くださって、どうもありがとうございました!
最後に、ここをご覧になっている他の方へ、そのコメント欄でのやり取りから、私自身の言葉を一部コピペさせてください。
(前略)
ただ、「勇気」という点は素直にお褒めの言葉を頂戴しておきます。
たしかにこういう発言を(友達と直接する会話でなく、ネットという公の場で)することは、私にとって勇気の要ることでした。
この言動による「個人的に被るリスク」はあると思います。
しかし、私個人がもしかしたら被るかもしれないリスクなど、この問題の大きさにくらべれば何とも思いません。
ここで何を語り何を語らないのか、それは自分の生き方そのものであり、その姿勢は自分の音楽に直結するものですから。
自分自身、今このことを全力で考え抜きそれを言葉に表さないことには、音楽へ向かう意義も失ってしまうだろうと感じています。
(後略)
コメントやり取りは、yukiさんのブログ内、ここで読めます。
http://pandes.jugem.jp/?eid=585
投稿: りき哉 | 2011年5月 9日 (月) 02時36分
よかった。同じような事をくどくど書いてしまって、反省してる所でした。
「少しでも多くの人に伝えたい」と思うと、誤解されないよう & 意図せず誰かを傷つけないよう、それこそ理性的に・・とか「試行錯誤 & 葛藤」・・ありますよね。私もかなり「書いたり消したり」やりましたよ。ふぅ。。。「長文前書き」(笑)、ご苦労様でした(お互い?)。「本編」楽しみにしております。
『一番の敵は無関心層』・・・あーなるほど!そうかもしれませんねー。
ところで「貴姉」ってありますが・・・あのぅ・・・そこだけはお言葉ですが(笑)多分わたくし貴方様より数ヶ月遅く生まれさせていただいていると思います ^^ ;
投稿: yuki | 2011年5月 9日 (月) 09時52分
yukiさん
>多分わたくし貴方様より数ヶ月遅く生まれさせていただいていると思います ^^ ;
あのね、それを「揚げ足取り」「重箱の隅をつつく」というのです!(爆)
「貴姉」は「男性が自分と対等または年長の女性を敬って呼ぶ語」(年上の人だけでなく対等の人にも使う)です。(笑)
あ、私は3日ほど前に一つ歳を重ねました。
中身も少しずつ大人になれるよう、がんばります^^;
ところで補足です。
「実現の難しさを語るとき、その根拠を支える前提自体を疑ってみる必要がある」というのは、念のため具体的に言うと、例えば・・、
「私はプロミュージシャンになりたいけど無理だろう」と思うときの根拠が「自分には才能がないから」というものであったとき、その判断の前提にしている「才能とは最初から要領よく上手に弾けること」ということ自体を疑う必要がある、ということです。
エネルギー問題で例を挙げれば、
「脱原発は無理」と言うときの根拠が「電力が夏場には何キロワット不足するから」というものであったとき、そこには「夏場には何キロワット必要だ」という前提があるわけですが、それを疑う必要がある、ということです。
(もちろん過去データを疑えと言っているのではなくて)過去データを基に「夏場には何キロワット必要だ」と数字を示して議論の前提とすることは、「今夏も例年と同じだけ電力を使う」つまり「まったく節電しない」ということを前提にしているわけで、「節電をしないのなら脱原発は無理」と言っているに過ぎない、ということです。
私たちは(どれくらいの覚悟があるかは人それぞれであるにしても)節電する心づもりはあるのですから、努力しないことを前提に「脱原発は無理だ」と言うのでなく、「どれくらいの節電が可能か」「何キロワットの節電のためにどんな方法が可能か」を議論するべきでしょ、と私は言いたかったわけです。
この例における「前提」は「節電はできない」ということであり、私が思うのは「なんでその前提に立つの?」という感じです。
そしてさらには、「節電努力も必要だけど、『努力』以前に、もっと言えば『がまん』よりも前に、例えば真夏にセーターを着込まないと寒くなるほどの冷房を効かすことなどを一例とした私たちの生活習慣・価値観自体を見直してみましょう」と言いたい訳で、このことを指して「実現困難性の根拠を支える前提自体を疑うべし」と言ったのでした。
以上の例は一例であって、いろいろな議論に同様のことが言えるわけですが、でも、この例で最後に書いたことが、私が次に執筆したいテーマなのでした。
ちょっと補足のつもりが、長くなってしまいました。
かたじけない^^;
(これをそのままブログ記事にしようかしらん^^;)
投稿: りき哉 | 2011年5月 9日 (月) 11時11分
> それを「揚げ足取り」「重箱の隅をつつく」というのです!(爆)
あ”、、、ばれた?・・・ ^^; ・・・しまった墓穴掘りました(爆)。でもお陰で勉強になりました。敬って下さってたのに自分の無知を棚に上げ、大変失礼致しました。m(_ _)m
(皆さん「揚げ足取り」を指摘されたら、エゴは引っ込め(?)素直に謝りましょう。(笑))
遅ればせながらお誕生日おめでとうございます。もしかして6日?ちなみに私のは2ヶ月前の月の6日です。早生まれなので実際は10ヶ月あとですが(・・・ってまだ言ってるし ^^; )。
・・・枝葉のツッコミはこのくらいにして、、、。
「実現困難性の根拠を支える前提自体を疑うべし」の内容、よくわかりますよ!楽しみにしております。でもくれぐれもマイペースでご無理のないように。 ^_-
(PS 私も最初の長文コメント、このまま自分とこでブログネタにしようかしらん ^^; )
投稿: yuki | 2011年5月10日 (火) 09時37分
yukiさん
お、6日同士でしたか^^
>「実現困難性の根拠を支える前提自体を疑うべし」の内容、よくわかりますよ!
あ、この補足は蛇足・・釈迦に説法でしたかね。
最初に頂いたコメントで、
>その過程で「実現の根拠を支える前提自体を疑ってみる」という柔軟性も必要でしょうね
とあったのが、ちょっとよく解らなかったので(「実現の根拠」って引用は違うし、これって柔軟性というより、より根本を見ようという話なんだけど、と思って)念のため余計な説明をしてしまいました。
かたじけない^^;
まあこれも「重箱の隅」ですので、これに更なるレスはご無用です^^;
投稿: りき哉 | 2011年5月10日 (火) 12時29分