写真から意味を断ち切るという見方
「写真を巡る初心者の思考」vol.5として
ログ「写真について解らないこと」で予告した三つの気付きについて、今回はその一つ目。
昨年、写真を作品として観るときの自分なりの基準(方法)を一つ発見した。
写真から意味を外して観る、という方法だ。
被写体が人であったり物であったり風景であったり、そういう具象であっても、写真に現われた、ただその形や色などだけを観る。
それまで私は、子供の笑顔が写った写真は「子供の笑顔の写真」だと思って見ていたし、きれいな夕日を写した写真は「きれいな夕日の写真」だと思って見ていた。
しかし、それではいけない。
・・ということはないのだろうが、とにかく一度そういう「何が写っているのか」を見る見方を禁止してみるのだ。
子供を写した写真であっても、意味のない二次元の図形とか模様として眺めてみるのである。
子供の表情が良いとか、決定的瞬間であるとか、そういうことはいっさい考えない。
これは単に写真の、たとえば「構図だけを見る」ということではない(と思う)。
ある写真の構図について考えるときには、写っている内容(被写体のもつ意味)も関わってくるであろう。それは、主役と背景だとか、そこに写っているもの同士の何らかの関係を考量することになるはずだ。
そうではなくて、もっと徹底的に「記録された内容」を完全に取り払い、意味を断ち切る。
そうして眺めてみると、何となく写真の良し悪しの判断が、専門家のそれと一致することが多くなった(ような気がした)。
とくに、写っているものがつまらない(と自分が思う)ものであるとき、この見方は有効であるように思う。
写真に写っている物語に囚われていると、写真に現れた模様・図形としての美しさ・面白さを見逃してしまう。
「歌」から詞(の意味)を外すことで、「音楽」そのものが聴こえてくる。
・・ということと、似ている(気がする)。
記事トップの写真は、駿府公園・紅葉山庭園にて(2010年6月25日)。
仙台港に入港する客船「飛鳥Ⅱ」から(2010年9月24日)。
by りき哉
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