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2010年8月13日 (金)

「今を懐かしむの術」が効かないとき

前のログ「今を懐かしむ」を書いてから、「今を懐かしむの術」が有効である場合と無効である場合の違いについて考えてみた。
(件のログを未読の方はそちらを先にどうぞ)

些細なこと・・たとえば「子供がちっとも言うことを聞かないで駄々をこねていること」でイライラしたりとか、つまり「自分に気持ちの余裕がないために心が乱れている」というような時は、この術はとても有効だ。(この術があることを思い出しさえすれば。)

また、必ずしも自分の心に余裕がないせいではない(と思われる)けど些細なこと、たとえば「電車で隣に座った男が足を組んで私のズボンを汚していることに無頓着である」とか、そういう「自分自身に直接かかる不利益」についての不満であれば、(この術を使ったりして)自分でその不満を鎮めることができる(ときもある)。

一方、「駅で、明らかに元気そうな(そしてキャリーバッグなど大きな荷物を持っているわけでもない)若者が、階段があるにも関わらず、お年寄りやベビーカーを押している人たちを差し置いて僅か1フロア分を昇降するたった1台しかない小さなエレベータにさっさと乗り込む(そのせいで、エレベータを本当に必要としている人が定員オーバーで乗れず、次に戻ってくるのを待たなくてはいけない)」とか・・・、そういったことに憤りを覚えているときには、この術は効力を持たない。
というよりも、人としてそこで憤りを感じないようになっては逆にいけない、と私は思っている。

だが、それでも、この時も私の中では葛藤がある。
もしかしたら(元気そうに見える)この若者は、実は足を怪我しているのかもしれない、体調が悪いのかもしれない、と、最大限に彼らに有利に考えてみたりする。

しかしエレベータを降りて我先にと闊歩する彼らの様子を見て、やはり一言注意してやるべきだったかと後悔したりする。

そして更に、「いや、もしかしたら父親が危篤だと電話で知らされて一秒を争って急いでいるのかもしれない」、と無理矢理にでも彼らを正当化してあげようとしてみたり・・もする。

そして、空しくなる。

他者に対する思いやりとか想像力が決定的に欠如しているばかりか、その欠如していることにまったく無自覚である(に違いない)彼らに対して、こちらが一方的に憤ったり、ましてや無用の想像を働かせてやることは、あまりに不均衡であると感じる。

不正義(だと自分が思うこと)に対する妥協的態度など嫌悪こそすれ決して求めたいとは思わないが、しかし一方で、正義は一つではない、ということも十二分に承知しているつもりだ。

もしかすると、視点を変えれば(モノサシを替えれば)私自身の言動も彼らと大差がなかった、という可能性もなくはないだろう。

そう考えると、術が効く場合と効かない場合の境界は、とても曖昧に思えてくる。

達観の域は、果てしなく遥か彼方に霞んで、いったい近づいているのかどうかさえ心もとない。

by りき哉

この記事の更に続編です。
「今を懐かしむ」の補足

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