流しそうめん考
流しそうめんを、(残念ながら)私はまだ体験したことがない。
しかし、流しそうめんというのは何て絶妙なシステムなんだろう、と(夏になると)いつも思う。
これほど感嘆すべき生活文化が他にあるだろうか。
そうめんは普通に食べても涼しげな食べ物であるが、それを小川の清流に見立てた竹樋に流しながら食すのは、言うまでもなく「涼をとるため」である。
「チリン」という風鈴の音に(実際に気温が下がるわけではなくても)涼しさを感じるなど、私たちはこの四季を愛でる繊細な感性を受け継いできた。
食事と納涼を一つに合体してみるだけでも従来の枠組みを超えようとする意欲的な試みであるが、これはそれだけではない。
うかうかしていると流れ過ぎて行ってしまうという緊迫した状況で、樋を流れてくるそうめんを手際を競ってすくい取るという芸当は、「金魚すくい」や「バッティングセンター」などに通ずる(というより、もはやそれらと同類の)「ゲーム」であると言って良いだろう。
普通なら「食べ物をおもちゃにして遊んではいけません」と大人に叱られるところだ。
最初に「流しそうめん」を発明した人は叱られなかったのであろうか。
もし「流しそうめん」という文化が現在まで発明されていなくて息子(4歳)が突然そういうことをしたとしたら、私は厳しく叱るであろう。
「ゲーム性」と「納涼」と「食事」と、(ともすれば相反する)三つの要素を融合してしまうとは。これを考えた人は偉すぎるっ!
たとえば、やはり夏の風物詩である「スイカ割り」に含まれる要素は、「遊び」と「食事(おやつ)」の二つに過ぎない。しかもそれは同時に行われるのではなく、まず遊び、それが終わってから食べるだけだ。
しかし流しそうめんは、その一つの行いの中に「遊び」と「納涼」と「食事」が同時に含まれている。
遊びながら涼を取りつつ食べるのだ。
いや、食べながら遊びつつ涼を取るのかもしれない(順列は6つある)。
これらのことを考え合わせるとき、私は「流しそうめん」という比類なき優れたシステムと、それを生み出した自由で大らかな精神に、心から驚嘆するのである。
by りき哉
この話には続きがあります。
続・流しそうめん考
« ようこそ!PENTAX LX | トップページ | 今を懐かしむ »
「1: 随想録」カテゴリの記事
- 組曲「空と蝶」について(2024.10.07)
- 駅間で(2024.06.14)
- 落としたもの、残り続けるもの(2024.10.04)
- 「わかる」と「わからない」のあいだ(2023.09.04)
- 花としての言葉と音楽と(2023.06.19)
お久しぶりです。
それにしても、暑い日が つづきますね。
そんな時に、美味しいのが・・・・そうめんや冷や麦ですね。
私・・・だいぶ前ですが・・流しそうめん・・体験者です。
リズム感が、必要かもしれませんね・・・味わっている、暇はありません。
次から、次へと流れて来るのに、取り損こねたくないんですよ。
その時の姿・・思い出しますと・・恥ずかしいやら、おかしいやら、楽しい思い出です。
ぜひ、ご家族で 体験されては・・・いかがでしょうか?
投稿: 志乃 | 2010年8月 4日 (水) 17時09分
志乃さん
流しそうめん体験、いいですね〜。
もちろん、必ず私も体験したいと思っています。
そしてやるからには、竹林から竹を採ってきて竹樋を作るところからやりたいな〜と。
今年こそは・・と毎年思っているのですけど・・。
投稿: りき哉 | 2010年8月 5日 (木) 01時02分