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2010年8月21日 (土)

続・流しそうめん考

(先日のログ「流しそうめん考」の続編です。未読の方はそちらを先にどうぞ。今回は少しばかりマニアックな話に踏み込んでいます。)


流しそうめんについては、実はもう少し掘り下げて考えたことがある。

近頃は卓上の容器の中を水がぐるぐる回る「流しそうめん器(機)」なるものが売っているらしいが、そのような機器を使ってそうめんを食べたところで、「流しそうめん」をしたことにはならないと思う。
その商品コンセプトは「流しそうめん」の本質を完全に逸しているのではないか。
そもそも、そこには風情も何もないだろう。
いろいろなメーカーから発売されているこれらの機器は、いったい真面目に企画・開発されたものなのだろうか。私には「バカバカしさを楽しむための冗談」であるようにしか思えない。

・・と思っていたら、その回転流しそうめん機で「流しそうめん」をしたことがあるという何人かの(各人は繋がりのない)知人たちから「天才的に楽しかった」とか「それなりに盛り上がって楽しい」という話を聞き、ちょっと(いや、とても)驚いた。
そういうものなのだろうか。

もちろん、それが楽しいのは結構なことだ。
しかし、電動でぐるぐる周回しているそうめんを食べることと、重力のままに竹樋を流れ行くそうめんを食べることは、まったくその意味が違うだろうと思う。
これは「電子ピアノと電気ピアノの違い」に準じる違いであるかもしれない。(*1)
ログ「流しそうめん考」で想定していた流しそうめんは、もちろん後者の方である。

「毎年いなかに帰ると流しそうめんをしている」という人から聞いたところによると、その家ではまず竹林から孟宗竹を切ってくるところからイベントは始まるそうだ。

竹を必要な長さに切って二つに割り、節を抜き、ささくれを取り、そうめんが流れる竹樋とする。
残りの竹で樋を支える台を作り、座敷を横断するように樋を据え付け、庭に突き出た端にそうめんを受けるザルを取り付け、上流側にはビニールホースをくくりつける。

さらに・・、ここからが重要なのだが(とその人は言っている)、その水が落ちる先に「ししおどし」を作るそうだ。

そしていよいよ本番。
ビニールホースの先の水道の蛇口をひねり、そうめんを流す。
子供たちがワイワイ言いながら一生懸命にそうめんをすくい取って食べていると、不意にししおどしが

「カッコーン」

と響き渡る・・・。

・・・

嗚呼、なんと素晴らしいイベントだろうか。
竹を切ってくるところから始まり、そのシステムにししおどしを組み込むことまでするのは、おそらく「流しそうめん」としては最も本格的なレベルであるに違いない。

彼の話を聞いて、いろいろと考えるところがあった。
流しそうめんには「遊び(ゲーム性)」と「納涼」と「食事」という三つの異なる要素が同時に含まれている・・ということの驚異については、先のログに書いた通りである。

それとともにもう一つ感じたことは、流しそうめんは「私たちが時間について思索を巡らせるための装置」として機能しているのではないか、ということである。

竹を採ってきて竹樋を作るという、いざ、そうめんを流すに至るまでの大変な行程。
それはおそらく本番のための「準備」ではなくて、それ自体も目的化しているのだ。
そこには、「『ハレ』ではないが、少しばかり特別な『ケ』」としての日常の時間がある。
普段の生活レベルで感じる時間だ。

そして、流しそうめんの本番に於ける、束の間の特異点としての時間。
そうめんは上流から流れてきて、取り損ねれば下流へと流れて行く。
竹樋の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・。
樋を流れるそうめんに対峙するのは、「常なるものは無い(すべては変化する)」ということに思いを巡らせるためではないだろうか。
流しそうめんを発明した人は、おそらくこれを「無常を知るための装置」として考案したのだ。
私たちが時間を認識するのは「何かしらの変化」によってであり、もし全く何も変化を見出せなければ時間を認識することはできないであろう。無常を見据えることは、「時間」の概念を拡げ深めることに他ならない。

そして、ししおどしだ。
子供たちの喧噪の中で、あるいは静寂の中でも、ししおどしは連続した流れの間合いを、切る。
庭と座敷に響き渡る「カッコーン」という音と残響は、新しい時空の誕生(ビッグバン)のメタファー(隠喩)として捉えられるだろう。

竹樋を製作・準備する「日常の時間」。
そうめんが上流から下流へと流れていく「特異なる束の間の時間」。
そしてししおどしが生み出す「宇宙的な時間」。

かように、「流しそうめん」というイベントには様々なスケールでの物理的・哲学的な時間が内包されているのである。

「流しそうめん」とは、食べる、涼をとる、ゲームとして遊ぶ、というイベントであるだけでなく、人が「時間」を意識するための複合システムであったのだ。

このように、遊び、涼み、食べながら思索するおこないを、私は他に知らない。
これは重要無形民俗文化財に登録されるべきではないだろうか。

単なる「夏の風物詩」という領域を超えた、次世代に伝えなくてはいけない「文化遺産」として、私も一度は「流しそうめん」体験をしなくては・・・、と、毎年思っているのだが・・・。


Imgp0022
写真は一般的なイメージとしての(流しそうめんのシステム内ではない、単独の)ししおどし。
8月12日 庭園セッションで通っている小石川後楽園にて。


(*1)
ログ「ローズ・ピアノ出動!(エレピとデジピは違うよ)」参照


【追記:2012.6.22】
ついに初体験しました。流しそうめん初体験


by りき哉


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