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2010年8月30日 (月)

bando-band@上野Qui(9/8追記あり)

ますます楽しく広がりつつある「bando-band」のライブが近づいてきました。

今回はbando-bandにとって初めての地、上野にて。
「ライブスペースQui」は、椅子の座り心地なども良く、ちょっと「オトナな」空間です。

ピアノが、ヤマハの「S6B」という(S4Bだったかもしれませんが、どちらにしても)、ヤマハの中ではフルコンよりも音色とか響きが素晴らしい(と、私は思っている)モデルです!
都内近郊のジャズ系のライブハウスで、このSシリーズを置いている店は、私は他に思い当たりません。

・・・というマニアックな話は、たぶん殆どの方には興味ないかもしれませんが、それにピアノはモデルよりも調律(調律師)次第という要素が大きいのですけど、とりあえず「S」だということはピアニストとっては大きなアドバンテージとなるのです。

そういうこともあり、この「Qui」ならではの新たなサウンドが開けることと、私もとても楽しみにしています。
(あ、ちなみに「Qui」は、「キ」と読みます。)

いつも応援してくださる方々も、まだbando-bandを観たことがないという人も・・、皆さまのお越しをお待ちしています!

2010年9月7日(火)
bando-band ライブ

19:30スタート
チャージ4,500円(1ドリンク+おつまみ付)

bandoneon 大久保かおり
piano    中村力哉
bass    マーク・トゥーリアン
percussion 浜野律哉

場所:上野「ライブスペースQui
東京都台東区上野2-13-2パークサイドビル4F
TEL 03-3831-0747

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イラスト:by 大久保かおり


大久保かおり web site

bando-bandって何?・・という方はこちらをどうぞ。
bando-band 1st CD 出来た!
bando-band website

追記(9/8)
おかげさまで成功裏に無事終了しました。
自分個人の音楽的な反省点は(今回に限らず、また、bando-bandに限らず、すべての仕事であることなので)さておき、いつも応援してくださっている方にはいつもよりちょっと大人な空間で、初めての方にも(ライブ後の感想などを伺ったところ)bando-bandの世界を楽しんで頂けたように感じています。
バンドとしてもさらに精進しつつ、世界を拡げ深めていきたいと思っています。
お越し頂いた皆さま、応援してくださった皆さま、どうもありがとうございました!!

by りき哉

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2010年8月29日 (日)

Dear Pascal

親愛なるパスカルさま

あなたと初めて共演したのは、2003年の秋、神楽坂にある日仏学園でのイベントだった。
あの時、ちょっとした「事件」があったせいもあり、お互いに印象深い出会いだったね。

それからは都内のレストランを始め、大阪や福岡にも行ったりして、一緒に演奏する機会をたくさん持てた。

あなたの底抜けにハッピーでパワフルでユーモラスなパフォーマンスは、いつも会場の雰囲気を明るくしたし、僕も一緒に仕事をできるのが本当に嬉しく、楽しかった。
ささやくように歌うのも、朗々と歌い上げるのも、サッチモをそっくりに真似て歌ったりするのも・・、日本語とフランス語と英語で自在に楽しくおしゃべりするのも・・。

僕に子供ができたときは一緒に大喜びしてくれて、子育てについてもよく話してくれた。
故郷のフランス土産に頂いた、天使と悪魔の絵柄がプリントされたTシャツを、息子はよく着たよ。

今日、あなたの「お別れ会」に行って、まだ信じ難いけど、安らかに眠るあなたに触れることができて、たくさんの思い出を大切にしまっておきたいと思ったよ。
ついこの間レコーディングしたばかりという「My Way」は、パスカル節の素晴らしい歌唱だね。

「ちょっと咳が出る」と思ってから、僅か2週間で急逝してしまうなんて。

このブログには悲しい記事は書かないつもりでいたのだけど、自分の中にしっかりと記憶しておきたかったから書き残すことにした。

パスカル、素晴らしいエンターテイメントを、楽しい共演を、どうもありがとう。

2010.8.29. piano Rikiya Nakamuraより
Pascal VENTURELLIさま

2010年8月25日 (水)

庭園セッションの近況

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庭園インプロビゼーション vol.02として。


5月にスタートした庭園セッションは、「次回以降、自分の中で即興演奏はどう発展していくのか(していかないのか)楽しみ(ハラハラ)である」と記したきりだったが、その後どうなったのかというと、順調に回数を重ねている。

一昨日(8/23)のセッションで8回目を数えた。

第2回目は雨天のためスタジオにて、初回の録音を聴きながらメタ認知をし、その演奏について言及するのを録音しつつ、さらにテキストとしてレポートする、という形で行われた。
このテキスト・レポートも、なかなかハイテンションな仕事であった。

第3回目以降はずっと初回と同じ、東京・小石川後楽園内にて。
同庭園では今まで7箇所のポイントで、前回やそれ以前の録音を聴いてメタ認知したことを語り、新たな即興演奏をして、さらにそれについて言及する、ということをしている。

だいたい2週間ぶりに自分の即興演奏を聴き直すと、弾いた時に自分が考えたことや実際のアプローチなどについて、覚えていることもあれば、忘れていたけど聴いて思い出すこともあるし、それにまったく「何でこんなことを弾いたのか」思い出せないこともある。

まあ、それは当たり前なのだが、音だけでなく、五感を使って目の前の空間と音楽を結びつけるという試みは、やはり毎回とても刺激的でもあり、「何となく」という曖昧な態度が許されないという意味でチャレンジングでもある。

録音を聴くと、(天気も今とは違う)その時の景色が思い返されるのは面白い。

新たな即興演奏をするときは、それまでのアプローチを意識的に踏襲することもあれば、バージョンアップしてみようとしたり、まったくそこから外れてみようと努力してみたり・・、その場所やその時によっていろいろだ。

自分の「審美基準」とか「自由な精神」とか「論理性」とか、それらのバランス感覚を試されているような気分にならなくも・・ない。

何はともあれ、藤井さんも私も、このセッションをとても楽しんでいる。
そろそろ、今までのセッションを総括するためのセッションをすることになるだろう。

備忘を兼ねて、実験の近況報告まで。

写真は、6月9日、雨上がりの小石川後楽園で撮った3枚組。
インプロビゼーションは、空間の幾何学的なことだけでなく、雨に濡れた緑の質感や匂い、それに得体の知れない「気配」みたいなものにも感化される。

by りき哉
(このログは、「庭園インプロビゼーション vol.00」、「言語より先に音楽は生まれるか」の続報です。)

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2010年8月21日 (土)

続・流しそうめん考

(先日のログ「流しそうめん考」の続編です。未読の方はそちらを先にどうぞ。今回は少しばかりマニアックな話に踏み込んでいます。)


流しそうめんについては、実はもう少し掘り下げて考えたことがある。

近頃は卓上の容器の中を水がぐるぐる回る「流しそうめん器(機)」なるものが売っているらしいが、そのような機器を使ってそうめんを食べたところで、「流しそうめん」をしたことにはならないと思う。
その商品コンセプトは「流しそうめん」の本質を完全に逸しているのではないか。
そもそも、そこには風情も何もないだろう。
いろいろなメーカーから発売されているこれらの機器は、いったい真面目に企画・開発されたものなのだろうか。私には「バカバカしさを楽しむための冗談」であるようにしか思えない。

・・と思っていたら、その回転流しそうめん機で「流しそうめん」をしたことがあるという何人かの(各人は繋がりのない)知人たちから「天才的に楽しかった」とか「それなりに盛り上がって楽しい」という話を聞き、ちょっと(いや、とても)驚いた。
そういうものなのだろうか。

もちろん、それが楽しいのは結構なことだ。
しかし、電動でぐるぐる周回しているそうめんを食べることと、重力のままに竹樋を流れ行くそうめんを食べることは、まったくその意味が違うだろうと思う。
これは「電子ピアノと電気ピアノの違い」に準じる違いであるかもしれない。(*1)
ログ「流しそうめん考」で想定していた流しそうめんは、もちろん後者の方である。

「毎年いなかに帰ると流しそうめんをしている」という人から聞いたところによると、その家ではまず竹林から孟宗竹を切ってくるところからイベントは始まるそうだ。

竹を必要な長さに切って二つに割り、節を抜き、ささくれを取り、そうめんが流れる竹樋とする。
残りの竹で樋を支える台を作り、座敷を横断するように樋を据え付け、庭に突き出た端にそうめんを受けるザルを取り付け、上流側にはビニールホースをくくりつける。

さらに・・、ここからが重要なのだが(とその人は言っている)、その水が落ちる先に「ししおどし」を作るそうだ。

そしていよいよ本番。
ビニールホースの先の水道の蛇口をひねり、そうめんを流す。
子供たちがワイワイ言いながら一生懸命にそうめんをすくい取って食べていると、不意にししおどしが

「カッコーン」

と響き渡る・・・。

・・・

嗚呼、なんと素晴らしいイベントだろうか。
竹を切ってくるところから始まり、そのシステムにししおどしを組み込むことまでするのは、おそらく「流しそうめん」としては最も本格的なレベルであるに違いない。

彼の話を聞いて、いろいろと考えるところがあった。
流しそうめんには「遊び(ゲーム性)」と「納涼」と「食事」という三つの異なる要素が同時に含まれている・・ということの驚異については、先のログに書いた通りである。

それとともにもう一つ感じたことは、流しそうめんは「私たちが時間について思索を巡らせるための装置」として機能しているのではないか、ということである。

竹を採ってきて竹樋を作るという、いざ、そうめんを流すに至るまでの大変な行程。
それはおそらく本番のための「準備」ではなくて、それ自体も目的化しているのだ。
そこには、「『ハレ』ではないが、少しばかり特別な『ケ』」としての日常の時間がある。
普段の生活レベルで感じる時間だ。

そして、流しそうめんの本番に於ける、束の間の特異点としての時間。
そうめんは上流から流れてきて、取り損ねれば下流へと流れて行く。
竹樋の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・。
樋を流れるそうめんに対峙するのは、「常なるものは無い(すべては変化する)」ということに思いを巡らせるためではないだろうか。
流しそうめんを発明した人は、おそらくこれを「無常を知るための装置」として考案したのだ。
私たちが時間を認識するのは「何かしらの変化」によってであり、もし全く何も変化を見出せなければ時間を認識することはできないであろう。無常を見据えることは、「時間」の概念を拡げ深めることに他ならない。

そして、ししおどしだ。
子供たちの喧噪の中で、あるいは静寂の中でも、ししおどしは連続した流れの間合いを、切る。
庭と座敷に響き渡る「カッコーン」という音と残響は、新しい時空の誕生(ビッグバン)のメタファー(隠喩)として捉えられるだろう。

竹樋を製作・準備する「日常の時間」。
そうめんが上流から下流へと流れていく「特異なる束の間の時間」。
そしてししおどしが生み出す「宇宙的な時間」。

かように、「流しそうめん」というイベントには様々なスケールでの物理的・哲学的な時間が内包されているのである。

「流しそうめん」とは、食べる、涼をとる、ゲームとして遊ぶ、というイベントであるだけでなく、人が「時間」を意識するための複合システムであったのだ。

このように、遊び、涼み、食べながら思索するおこないを、私は他に知らない。
これは重要無形民俗文化財に登録されるべきではないだろうか。

単なる「夏の風物詩」という領域を超えた、次世代に伝えなくてはいけない「文化遺産」として、私も一度は「流しそうめん」体験をしなくては・・・、と、毎年思っているのだが・・・。


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写真は一般的なイメージとしての(流しそうめんのシステム内ではない、単独の)ししおどし。
8月12日 庭園セッションで通っている小石川後楽園にて。


(*1)
ログ「ローズ・ピアノ出動!(エレピとデジピは違うよ)」参照


【追記:2012.6.22】
ついに初体験しました。流しそうめん初体験


by りき哉


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(もっと良い「スパム対策」があると良いのですけど・・)

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ほぼ日に一回はチェックしていますので、書き込み(送信)いただいてから一日後のうちには公開されると思います。
(稀に、私がすごく忙しかったり、ネット接続できない環境にいるなど・・諸事情により公開が遅れることもあるかもしれませんが、大目に見てやっていただければと。。。)

どうぞよろしくお願いします。

※ 今後アップする記事の末尾にはこのページへのリンクを貼るようにします。

by りき哉

2010年8月20日 (金)

秋元順子ジャズライブ'10

この夏の秋元順子さんのジャズ・ライブが、札幌市民ホール、横浜ベイシェラトン(ディナーショー)に続き、六本木STBにて(一先ず千秋楽として)無事終了しました。
どの会場もすべて満員御礼で、お越し頂いた皆さまにも大好評だったとのことを聞きました。

このメンバーによるジャズ・ライブは6月のSTBを皮切りに4回目でしたが、やはり回を重ねるごとに私たちの息も合ってきて、よりゴキゲンなサウンドになってきたように思います。
ああ、もっとたくさんライブをしたいなぁ。

アルバム「encore」やライブを通して、今までジャズに馴染みのなかった方にもその楽しさ・気持ち良さを堪能して頂けたら良いな・・と。
順子さんも本当にとても楽しそうでした。

今回のメンバーを記しておきます。

vocal 秋元順子
sax  藤田明夫
piano 中村力哉
bass マーク・トゥーリアン
drums 今野大輔

(写真は時間がなくてぜんぜん撮れませんでした)

順子さんのファンの方々、ジャズ・ファンの方々、どうぞこれからも応援よろしくお願いします。

by りき哉

2010年8月17日 (火)

「今を懐かしむ」の補足

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(先日のログ「今を懐かしむ」(と、その続編である「『今を懐かしむの術』が効かない時」)の、更に続編です。)

件のログを読んだ友人から、「私もその技を使ってきたけど、30年も先にシフトしたことはなかった」というレスを頂いた。

私の経験からすると、この術を使うときはもう殆ど「お迎えが近くまできた時」、あるいは更に「臨終の床についている時」までシフトするのが最も効果的であるように思う。

ただ、自分が実際にその年齢に近づいた時に、果たしてこの術は使用可能なのか、という点は不明ではある。
(その時には、もはやこんな術など必要としなくなっている・・といいのだが・・。)

・・それはともかく、
しかし一方、この術が有効なのは、自分の心が乱れている時に限らない、ということを補足しておきたい。

何気ない日常の一コマが本当に宝物に思えてくる、という効能がある点では、嬉しい時も平常心の時にも、この術は有効である。

これはすなわち「今を大切にする」「今を生きる」ということに繋がるような気がする。

Life is now.

トップの写真は、今日の一コマをモノクロ視点で懐かしんでみた一枚。
8月16日、マーク・トゥリアン氏宅にて。

by りき哉

2010年8月13日 (金)

今年の精霊馬

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昨夏、約束した通り・・・、
今回はちゃんとした馬でお迎えできました。

お祖父ちゃん、今年は乗りやすかったでしょ?


写真は、しきりに撮影の邪魔をする息子をかわしてようやく撮った1カット。
馬の作り方もバージョン・アップしています。
(作ったのは妻で、私は何もしていないのですけど)


(昨夏の精霊牛のログはこちら。「ナストンボ」)

by りき哉

「今を懐かしむの術」が効かないとき

前のログ「今を懐かしむ」を書いてから、「今を懐かしむの術」が有効である場合と無効である場合の違いについて考えてみた。
(件のログを未読の方はそちらを先にどうぞ)

些細なこと・・たとえば「子供がちっとも言うことを聞かないで駄々をこねていること」でイライラしたりとか、つまり「自分に気持ちの余裕がないために心が乱れている」というような時は、この術はとても有効だ。(この術があることを思い出しさえすれば。)

また、必ずしも自分の心に余裕がないせいではない(と思われる)けど些細なこと、たとえば「電車で隣に座った男が足を組んで私のズボンを汚していることに無頓着である」とか、そういう「自分自身に直接かかる不利益」についての不満であれば、(この術を使ったりして)自分でその不満を鎮めることができる(ときもある)。

一方、「駅で、明らかに元気そうな(そしてキャリーバッグなど大きな荷物を持っているわけでもない)若者が、階段があるにも関わらず、お年寄りやベビーカーを押している人たちを差し置いて僅か1フロア分を昇降するたった1台しかない小さなエレベータにさっさと乗り込む(そのせいで、エレベータを本当に必要としている人が定員オーバーで乗れず、次に戻ってくるのを待たなくてはいけない)」とか・・・、そういったことに憤りを覚えているときには、この術は効力を持たない。
というよりも、人としてそこで憤りを感じないようになっては逆にいけない、と私は思っている。

だが、それでも、この時も私の中では葛藤がある。
もしかしたら(元気そうに見える)この若者は、実は足を怪我しているのかもしれない、体調が悪いのかもしれない、と、最大限に彼らに有利に考えてみたりする。

しかしエレベータを降りて我先にと闊歩する彼らの様子を見て、やはり一言注意してやるべきだったかと後悔したりする。

そして更に、「いや、もしかしたら父親が危篤だと電話で知らされて一秒を争って急いでいるのかもしれない」、と無理矢理にでも彼らを正当化してあげようとしてみたり・・もする。

そして、空しくなる。

他者に対する思いやりとか想像力が決定的に欠如しているばかりか、その欠如していることにまったく無自覚である(に違いない)彼らに対して、こちらが一方的に憤ったり、ましてや無用の想像を働かせてやることは、あまりに不均衡であると感じる。

不正義(だと自分が思うこと)に対する妥協的態度など嫌悪こそすれ決して求めたいとは思わないが、しかし一方で、正義は一つではない、ということも十二分に承知しているつもりだ。

もしかすると、視点を変えれば(モノサシを替えれば)私自身の言動も彼らと大差がなかった、という可能性もなくはないだろう。

そう考えると、術が効く場合と効かない場合の境界は、とても曖昧に思えてくる。

達観の域は、果てしなく遥か彼方に霞んで、いったい近づいているのかどうかさえ心もとない。

by りき哉

この記事の更に続編です。
「今を懐かしむ」の補足

2010年8月11日 (水)

今を懐かしむ

昔を懐かしむことはいつでも簡単にできる。
遠い目をして10年前の自分は頑(かたくな)だったなぁ、とか。

でも自分の「今現在」は何かと仕事や雑用や子育てやらに追われて、余裕を持って俯瞰することが難しい。
だからついつい些細なことを怒ったり気にして心が乱れたりする。

そういう時に、頭の中で自分を、例えば30年後の自分にシフトして、30年前である今を懐かしむのだ。
そろそろ天寿を全うしようかという自分が遥か遠い目をしながら、昔の自分を「ああ、あの時はまだ若かったなぁ」と。

すると、今まさに目の前にある景色が、ちょうどスクリーンに投影されたモノクロ映像かのような、郷愁に駆られるワンシーンとして朧げに見えてくる。

すると、この「今」という瞬間が、とても愛おしくかけがえのないものだと思えてくる。

すると、自分が腹を立てているという負の感情すら、慈しむべき宝物であるように思えてくる。

すると、すっと心が平穏になる。

・・・という、(名付けて)忍法「今を懐かしむの術」を、ある時にふと発見・会得した(つもりな)のだが、いつでもその術を自在に操ることができるかというと、実際にはそれがなかなかできない。
(というか、そういう術があったことすら忘れがちなのだ。)

達観の域は遠い。

by りき哉


この記事には続編が2つあります。
「今を懐かしむの術」が効かないとき
「今を懐かしむ」の補足

2010年8月 3日 (火)

流しそうめん考

流しそうめんを、(残念ながら)私はまだ体験したことがない。

しかし、流しそうめんというのは何て絶妙なシステムなんだろう、と(夏になると)いつも思う。
これほど感嘆すべき生活文化が他にあるだろうか。

そうめんは普通に食べても涼しげな食べ物であるが、それを小川の清流に見立てた竹樋に流しながら食すのは、言うまでもなく「涼をとるため」である。
「チリン」という風鈴の音に(実際に気温が下がるわけではなくても)涼しさを感じるなど、私たちはこの四季を愛でる繊細な感性を受け継いできた。

食事と納涼を一つに合体してみるだけでも従来の枠組みを超えようとする意欲的な試みであるが、これはそれだけではない。

うかうかしていると流れ過ぎて行ってしまうという緊迫した状況で、樋を流れてくるそうめんを手際を競ってすくい取るという芸当は、「金魚すくい」や「バッティングセンター」などに通ずる(というより、もはやそれらと同類の)「ゲーム」であると言って良いだろう。

普通なら「食べ物をおもちゃにして遊んではいけません」と大人に叱られるところだ。
最初に「流しそうめん」を発明した人は叱られなかったのであろうか。
もし「流しそうめん」という文化が現在まで発明されていなくて息子(4歳)が突然そういうことをしたとしたら、私は厳しく叱るであろう。

「ゲーム性」と「納涼」と「食事」と、(ともすれば相反する)三つの要素を融合してしまうとは。これを考えた人は偉すぎるっ!

たとえば、やはり夏の風物詩である「スイカ割り」に含まれる要素は、「遊び」と「食事(おやつ)」の二つに過ぎない。しかもそれは同時に行われるのではなく、まず遊び、それが終わってから食べるだけだ。

しかし流しそうめんは、その一つの行いの中に「遊び」と「納涼」と「食事」が同時に含まれている。
遊びながら涼を取りつつ食べるのだ。
いや、食べながら遊びつつ涼を取るのかもしれない(順列は6つある)。

これらのことを考え合わせるとき、私は「流しそうめん」という比類なき優れたシステムと、それを生み出した自由で大らかな精神に、心から驚嘆するのである。

by りき哉

この話には続きがあります。
続・流しそうめん考




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