自由さの濃淡
いわゆる楽曲(スタンダード・ナンバー等)を演奏することと、フリー・インプロビゼーションの間には、どれくらいの距離があるのだろうか。
それぞれの領域は、断絶しているのか、それとも連続しているのか。
その問いに答えることは、「自分がどのように音楽と向き合っているのか」に答えることと等しい。
「フリー」の意味が、既存の概念や方法論から離れようとする行為であるとするならば、それもまた一つの方法論の中に収束してしまうことになるだろう、と思う。
(・・という話は、以前のログ「音楽をより深く感じるために」の中でも少し触れた。)
どれほど自由に演奏してみたつもりでも、それがどれだけ自由だったのか、何から自由だったのか、その境界は曖昧で、結局はプレイヤー個々が持っているモノサシで測るほかに、絶対的な基準はない。
思うに「自由」とは、何らかの枠組みに対して相対的に現れてくるものであり、その枠組みを意識した時点で、ある意味それは自由とは言えない。
つまり、真の自由というのは有り得なくて、何らかのモノサシを当てずに「自由」を語ることはできない。
たぶん、そうじゃないかと・・思う。
たとえば・・、ピアノでフリー・インプロビゼーションをするとする。
そのとき、弦を片端からペンチで切ったり、ピアノを(何人かで)ひっくり返して大音響をならすこともできる。
(防火服を着てピアノに火をつけて燃やしながら弾くパフォーマンスも私たちに大きなインパクトを与えた。)
たしかに、楽器を壊すことまでするエネルギーや動機は並大抵のことではないし、その「演奏」に対する意味付けも様々にできるだろう。
しかし当てるモノサシの種類や尺度(視点の角度や高度)によっては、それらの「自由さ」や「新しさ」も、しょせんは「孫悟空が宇宙の果てまで行って見た(と思った)五本の桃色の柱が実はお釈迦様の手の指だった(宇宙の果てどころかお釈迦様の手のひらから出ることすらできていなかった)」という話と何ら変わるところがない、と言えるのではないのか。
フリー・インプロビゼーションをするとき「そこまではしない」というラインがあって、プレイヤーは個々にそのラインをどこかに設定している。
燃えるピアノを弾くにしても、少なくとも「ピアノを使う」という前提がまずあるわけで、枠を広げ過ぎれば音楽としての意味を失ってしまう可能性がある。
(ピアノでなく木片を燃やしたのでは単なるたき火になってしまう。)
大抵の場合は、「ピアノを弾く」ということをスタートラインに設定しているだろう。
(ピアノを一切弾かないで座っているだけ、という自由もあるが、それは「4分33秒」になってしまう)
私がピアノだけで何かをやろうとした時に意識するのは、あくまでも「12平均律の中」でクリエイトする、ということだ。
調弦を変えることはしない、という約束であれば(そしてピアノのボディを叩くとかの手法を別にすれば)、ピアニストは与えられた音律の枠から出ることはできない。
他の多くの楽器や声にはそういう制約はないから、そのことを強く意識せずにはいられない。
あくまでもその音律の中で、というラインを課した上で、その中での自由を模索する。
自分が今どのようなモノサシを使っているのか、どんな枠組みに対して自由であろうとしているのか、そういうことをしっかりと見つめた上で取り組まなければ、フリーに臨む価値はない。
そしてもちろん、そういう枠組みの中でも「自由」は無限に広がっている。
言ってみれば当たり前のことだが、先日のライブで試みたフリー・インプロビゼーションがとても印象深かったので、何となく書き留めてみたのである。
・・・
6月5日(土)「なってるハウス」での神田綾子(vocalとvoice)ライブは大盛況だった。
彼女の絵の個展を記念したライブで、カイドーユタカ(bass)との三人編成。(敬称略)
1st.セットでは彼女の(DMに印刷された)絵を譜面台に置いて、それから得たイメージをもとに3人で自由即興演奏。
2nd.セットでは、お客さんからお題を頂き、それをモチーフに自由即興演奏。
(頂いたお題は「ラーメンとかき氷」だった)
スタンダード曲も2曲ずつ入れて、お客さんたちにも大好評のとても楽しいライブだった。
曲の中の1シーンとしてではなくて、1曲すべてをフリー・インプロビゼーションとして演奏するのは、ライブでは何年ぶりであろうか。
これからこういうライブをもっとやりたい、と密かに欲求が高まってきたような気がする。
・・と思ったら、渡りに船と言うのだろうか、「なってるハウス」からリーダー・ライブのお誘いを頂いた。
今というタイミングも含めてとても強い必然を感じたので、「願ったり叶ったり」とばかりに意を決してやることにした。
(自分のリーダー・ライブは久しぶりで、とても貴重な機会である)
内容はこれから練るところだが、オリジナルとスタンダードとフリーの3本柱でやりたいと思っている。
このライブの詳細告知はまた改めて。
(とりあえず日にちは、7月23日(金)です)
・・・
トップの写真は、とある部屋の壁に、窓から差し込んだ木漏れ日がゆらゆらと揺れている光景である。
白い壁面に揺れる光の模様、そしてその揺れるリズムが本当に美しくて、私はその部屋へ行った用事も忘れ、その光模様がどうして生じているのか探ることもしないまま、しばし心を奪われて眺めていた。
そして思い立って、携帯電話で(一眼レフを家に置いて来たことは痛恨だったが)写真と動画を撮ったのだった。
いつまでも眺めていたいと思う美しさだった。
今回のログの(フリーという抽象的な概念を語った)内容に合う写真はないかな、と思ったらこれを見つけたので、昨年の写真だがアップしてみた次第。
トイレという場所に、このような美しい光景があったことは、大きな驚きだった。
感動はどこに潜んでいるか判らない。
モノトーンだが、中央にオレンジ色の光も見える。
写真タイトル「自由さの濃淡」
2009年5月9日 浦安文化会館の楽屋のトイレの壁面
ノートリミング
text & photo by りき哉
補足:フリー・インプロビゼーションについて具体的に詳しく書いたログはこちら。
音楽をより深く感じるために
スタジオで試みたフリー(ソロピアノ)の録音も、記事中で試聴できます。
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専門的な お話は 難しく、できませんが・・・・・「枠の中の自由」と「自由の中の自由」を・・・どれだけ 自分が 楽しみながら・・・演奏されるか。
更に、そこに 聴きに来ている人々に(何等かの理由で 録音するだけとは、違う場面です)、感動を与えたり、笑いを起こさせたり・・・・ 。
大分、前の事、うる覚えですが・・・中村さんは それを ご覧になられたかは、解りませんが? テレビです、 浜辺で、防火服を 着た人(多分ピアニスト?)が、燃えるピアノを、演奏していました。 途中からで、ほんの何分?か?の事で、単なる パフォーマンスであったのか? 何かの実験であったのかは解りませんが、 私の中には、何も残らず、逆に 不快感がありましたね。 たった何分か? いや 何秒だったのでしょうか?
と 言うことで・・私のような 素人は、それが、自由であれ、自由でなくても、まずは いかに、聴く側を 楽しませてくださって、そして ご自分も 楽しんでいらっしゃるか・・と言うことが、また 聴きに行きたくなる・・・ので、 いつか 何処へ ふらりと ・・・・素人ファンより
投稿: 志乃 | 2010年6月21日 (月) 08時12分
志乃さん
どうもありがとうございます。
ちなみに防火服の人はピアニストの山下洋輔氏です。
最初は1973年にその「演奏」を行ってから、2008年に再びチャレンジなさっています。
二度目に際しては、たしかご自身でも「あれは何だったのか、その意味を確かめたかった」というようなコメントをしていたように記憶しています。
それが行われるに至った背景には時代とか(ベトナム戦争とか全共闘とか・・・私はその頃まだ子供でしたけど、想像するにたぶん))さまざまな要素が複雑に絡んでいるでしょうから、その意味を語るのはなかなか一筋縄ではいかないでしょうね。
私も、たしかにあの「演奏」は、見終えた後に何とも言えない虚無感みたいなものを覚えましたが、この記事ではフリーの極端な一例として取り上げてみた次第です。
「いかに聴く側を楽しませるか」という点で言えば、そこまで極端なフリーでなくとも、いわゆる「フリー」という手法・表現は、一般の(実験的、前衛的、思索的な音楽に慣れ親しんでいない)多くの方々に楽しんでもらえる音楽ではないと思います。
ポピュラリティー(大衆性)とは対極にある、と言ってもよいかもしれませんね。
でも、それは決して「専門家にしか解らない」ということではなくて、純粋に物事のあるがままを受け入れてくれる人には伝わるものだとも思っています。
フリーは、最も「その人自身」が表出するものだと思いますので。
私自身は、その両極の間で、自分なりのバランスを見極めて精進していきたいと思っています。
7月23日(金)のライブは、その「自分なりのさじ加減」を具現したいところです。
今後とも応援よろしくお願いしま〜す!!
投稿: りき哉 | 2010年6月22日 (火) 01時55分