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2010年5月31日 (月)

記録と表現

「写真を巡る初心者の思考」vol.3として

Imgp8373

4年ほど前(2006年)のこと、コンパクト・デジカメを購入してメーカーのアンケートに答えていたら、その中にとても印象深い質問があった。

 あなたにとって写真とは
 1.記録である
 2.表現である

というもの。
そのカメラを買ったのは、生まれたばかりの息子の成長記録を撮るためであり、将来「赤ちゃんの時はこんな風だったんだ」と振り返ることのできるように、日々の断片を写真として残しておくためである。

また、それより以前から(フィルムの)一眼レフカメラを持っていたが、それを持ち出すのは、旅行の際に「そこへ行ったという事実」や「こんな景色を見たという事実」などを記録しておくためであり、その写真は思い出として残しておく以上のものではなかった。

だから質問の答えは、何の迷いもなく1番である。
「写真とは記録である」
当たり前だ。ほかに写真を撮る目的があるか?
表現って一体何だ?

被写界深度(背景や前景のボケ具合)や被写体ブレを考えて絞りやシャッタースピードを選択したり、構図を考えたり・・・ということは(初心者なりに)してはいたが、それは記録を見栄え良く残そうということに過ぎなかった。
あくまでも事実を記録することが目的であり、表現(らしき工夫)があったとしても、それはその記録に付随するオマケ的なものとしての域を超えるものではなかったと思う。

そのアンケートの質問に出会ったとき、「写真とは表現である」という姿勢など私には全く無縁であるばかりか、想像すらしにくいものであったのだ。

しかし最近になって「表現としての写真」というものに少なからぬ興味を持つようになったのは、このアンケートの問い掛けがきっかけの一つになっていたのかも知れない。
たかがアンケート、されどアンケートだ。
善意で答えてやっていたつもりだったが、反対に大切なことを教わった気がする。

今あらためてこの問いに接したとしたら、何の迷いもなく1番だと答えることはできない。
たぶん、しばらく悩んでから1番だと答えるだろう。

「なんだ結局1番かよ」と切り捨ててはいけない。
これは設問に用意された答えが二択だから結果が同じに見えるのであって、「迷いなく答える」のと「悩んだ末に答える」のは、ぜんぜん違う。
多くの場合(たとえばライブで演奏する時など)は「迷いがない」のは理想的なことであるが、本件の場合は、設問の答えに「迷える以前のレベル」から「迷うことのできるレベル」へと自分の視野が広がったのである。

では、「記録としての写真」と「表現としての写真」の違いは、何だろうか。
それは一つには、それを撮影する目的、あるいは写真に対する態度の違いである、と言えるだろう。

たとえば免許証の顔写真や学術資料としての写真などは、人に感動を与えるために撮影されるのではない。(免許証の顔写真で、その人の心の内面を描くように照明や構図に工夫を凝らして撮影する、ということはされないし、たとえば地質学の資料としてある地層の断面を撮影するのに、観る人が安らぎを感じるようにとその背景に美しい夕日を写したりする、ということはない)
これらは、「純粋に事実を記録するため」だけの写真だ。

一方、(私がこの近年やっとその世界に気づいた)記録としての価値を意図しない、「純粋に作家の概念や世界観を表現するため」だけの写真もある。
それらは、何を写したのかすら解らないような写真であっても表現として成立するし、いつどこで撮影されたとか、そういう事実を問題としない。

もちろんすべての写真がどちらか一方に分類できるわけではない。写真の記録性と表現性を隔てるボーダーラインは細い一本の線ではなく、グラデーションを伴う幅広い帯のようなものだ。
日常生活の中で私たちが見る多くの写真はどちらの要素も持っていて、しかしその比重に違いがあるのだと思う。

以前は「客観的に事実を記録したもの」というイメージを(無邪気にも)持っていた報道写真なども、決してそれだけではなく、そこにはカメラマンが伝えようとしたメッセージが表現されていること、さらには事実とは違うことを表現することすらできる、ということも、今はよく解る。

時として一枚の写真が私たちに大きな印象を残すが、その写真は、ある事実を記録していると同時に、その事実の周りのあらゆる脈絡を断ち切った一片に過ぎない。

「写真とは、対象をそれが置かれた時間的・空間的な脈絡から切り離してくる仕組みである」と言える。
(と、今書きながら、悟ったような気がした)

その断ち切り方の中に、写真に於ける「表現」というものがあるのだろう。

写真は[何か]を、「記録」することも「表現」することもできる。

 あなたにとって写真とは
 1.記録である
 2.表現である

という設問に、何の迷いもなく2番だと答えるような領域に、いずれ私も足を踏み入れるときが来るかもしれない。


トップに掲載した写真は、つい先日あった息子の親子遠足での一コマである。
たしかにこれは子供の成長記録にもなるが、あるイメージを(偶然ではなく)狙って撮った、つまり表現(しようと)したものでもあり、どちらかというと後者の方に比重があると、自分では思っている。
[記録]:[表現]=4:6
くらいだろうか。
表現だと主張するからにはタイトルが必要かもしれない。
「いたずらっ木霊(こだま)」
(2010年5月26日 新宿御苑にて。ノートリミング)

下の写真も同様だが、こちらは
[記録]:[表現]=5:5
くらいとして撮ったつもりである。

Imgp8343
タイトル「(自分で)お弁当を包む」
(2010年5月25日 自宅にて。ノートリミング)

text & photo by りき哉

2010年5月28日 (金)

ブログ模様替えしました

Imgp8012

「ブログ開設2年8ヶ月とちょっと」を記念して、ページ・デザインを一新してみました。
(内容は何も変わりません)

ページ右の方に最近アップした写真が並んでいて、クリックするとその記事に飛んだり、ちょっとクールで楽しいデザインかなと。。
(携帯でご覧になっている方には見えませんが)

今後ともよろしくお願いします。
(様子を見て、勝手が悪いようならまた変更します)

・・というお知らせだけでは味気ないので、(模様替えとは関係ありませんが)写真も一枚掲載してみました。

先日(5月14日)、「横浜赤レンガ」でのワインフェスティバルにbando-bandで出演したとき、本番の合間に撮った一枚。

text & photo by りき哉

2010年5月20日 (木)

音楽を聴く耳・写真を観る目

音楽(に限らず一つのこと)を深く深く見つめていくことを真摯に長年続けていけば、他の(自分が勉強していない)分野についても深く洞察できるようになる(だろう)と、その時はまだ音楽のことも深く見えていなかった若い頃から、漠然と、というよりは信念に近いものとして、思っていた。
そして、実際に音楽についてあれこれ考えを巡らせることを(その密度・深さはさておき)ある程度の年月(それを生業にしてからは20年ほど)続けてきた今、その予想は当たっている(と思う)のか、というと、やはりその通りだった、とも思えるが、実際には専門外の分野についての自分の理解度は自分で判るはずもないので、それは想像の域を超えることはない。
ある分野における自分の理解度が自分で判らないことがすなわち自分がそれについて門外漢であることの定義である、と言っても良いだろう。

一つのことについて獲得した「深く見る目」は他のことにも応用することができるものだ、とやはり感じるものの、だからと言ってその応用の仕方は一概に決まるものでもないらしく、自分が音楽について解るのと同じレベルでいきなり写真についても解るようになる、ということはない。

一年半ほど前にヨドバシカメラの店頭でバナナのように叩き売られていたデジタル一眼レフカメラを購入してから、最近、私の中では写真(の見方)ついての興味がすこぶる増している。
以前(15年くらい前)から一眼レフ(もちろんフィルムの)カメラを使っていたが、それは単に旅の記録を残しておくためのものであり、雑誌「アサヒカメラ」をときどき買って見たりしてはいたものの、写真展に足を運ぶような、能動的にそれを鑑賞しようという姿勢も発想も持ち合わせていなかった。

いま私は「表現としての写真」を観る目に関してまったくの初心者だが、興味を持って見たり考えたりすると気づくことが沢山あって、その気づきがとても楽しい。

この興味が持続すれば、やがて(10年、20年くらい後には)中級者、上級者の仲間入りをしているかもしれない。尤も、この持続が凡人にとって一番困難なことであることは承知している。
でも一応それが持続することを想定して、現時点の私の写真に対する理解の浅さを記録しておきたいと思う。
これが「成長」記録になると良いのだが。

というわけで・・・、「写真を巡る初心者の思考」シリーズを始めるよ〜(どんなペースか、いつまで続くか判らないけど)、という予告まで。

この予告よりも前にアップしたログ「五月の光景」は、このシリーズの第一弾(vol.1)だったことにしよう。
また、ログ「言語より先に音楽は生まれるか」の末尾に掲載した写真とその解説の部分はシリーズvol.2であったことにする。

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電話ボックスに花壇の花が写り込み、複雑な空間を構成していた。
電話機(のプッシュボタン)にピントを合わせた。


text & photo by りき哉

2010年5月17日 (月)

言語より先に音楽は生まれるか

「庭園インプロビゼーション vol.01」として
(前回ログ「庭園インプロビゼーション vol.00」の続きです)

そして実験の初日を迎えた朝、今まで漠然と抱いていた問いが、ふと明確に立ち現れてきた。

言語より先に音楽は生まれるだろうか。

そもそも何かを感じるとき、言語なしにそれを感じられるものだろうか。
空腹であるとか、眩しいとか、私たちの生存にかかわるような基本的な情報ならば、ことばを獲得する前の新生児も感じている。
しかし、「あの空間のバランスが美しい」とか「色が美しい」とか、そういうことを言語の力を借りずに感じることができるのか。
感じたことを音楽に昇華させようとするとき、音楽インスピレーションは言語の束縛から逃れられないのではないか・・・。
ここで言語とは、(日本語とか英語とかスワヒリ語とかの)具体的な話し言葉や文章などだけを指しているのではない。
言語とは論理であり、論理性を抜きに美意識は生まれないであろう(と思う)。

なぜそう問うたのかというと・・・つまり私は、庭園で感じたことをそれが自分の中で言語化されるよりも早く音楽にしなければいけない、と思い込んでいたのである。
空間体験をまずいきなり即興演奏で表現してからその後に、いったい自分が庭園の何を感じたのかを改めて見つめ直しそれを言語表現するのだ、そういう順番であるべきだと考え、しかしそんなことができるのだろうか、と疑問に思ったのである。

でも藤井さんに尋ねてみると、それはどちらでもよい、言語表現してから演奏してもまったく構わない、とのことであった。

それを聞いて少し安心した。
しかし、もう一つ疑問があった。

空間から得たイメージを音楽に変換する「変換式」のようなものを用意しておくことは方法論の一つとして選択肢にあるのかどうか、それを準備しておくことは実験の意義を低下させるのではないか、という疑問である。

これは最初の疑問と同質のものだが、少しニュアンスが違う(ように思う)。
(でも、もしかしたら言葉を替えただけで同じことかもしれない)

変換式を用意する、というのは・・、たとえば石の大きさを音量と対応させ、木の配置をリズムに見立て、池の水面の状態をタッチ(音色)に対応させる・・という具合に空間から取り出してくる変数を予め決めておき、感性とかインスピレーション(といった曖昧な何か)によってではなく、半ば機械的(自動的)に音楽を作っていくようなやり方のことである。

でも藤井さんに尋ねてみると、それもまったく構わない、とのことであった。
変換式を用意したとしても、セッションを重ねるうちには必ずその式自体が変化していく(芸術家であれば変化させないハズがない)だろうから心配に足らない、ということだ。

なるほど。言われてみればそうに違いない。
それを聞いて少しすっきりした。
仮に、頑に機械的にやろうと思っても私たち(人間)が厳密に機械的にやることなど至難であろうし、そこには必ず「曖昧な何か」が混入するはずだ。

この日、庭園で演奏するにはこの上ない五月晴れだった。
場所は、東京は小石川後楽園にて。

庭園を散策し、演奏する場所(私が演奏したいと思う場所)を決め、即興を試みると・・・、果たして必ず音楽は言語の後に生まれてくるものであった。

まず、私が何か閃きそうだと思った場所に楽器や録音機をセットする。
そしてセットしている間に、私はさらにその空間をより深く体験しようと努力する。
すると、自分はその空間の何に心を動かされたのか、何を面白いと感じたのか、言語化できるイメージとして明確に見えてくる。
ピアノ(デジタル音源)で音を出すより前に、私はそれらのイメージを言葉として思いつくまま急いでメモにとった。
そして、それから即興演奏を始めた。

最初に得たキーワードをもとにインスピレーションを膨らませるが、演奏中に眼前の景色に新たな発見や感動をすることがあり、するとその瞬間に音楽に変化が起こる。
音楽が進行していく原動力は、いま進行している音楽それ自体からも生まれてくる。
演奏を終えて、メモしたキーワードはもちろん、その突発的変化についても言語表現する。
藤井さんは私の演奏と言説を、録音機やノートパソコンの音楽ソフトウェアを併用して記録していく。

そんな調子で、午後の2時間ほどをかけて、同庭園にていくつかの場で(それぞれ1回ずつ)フリー・インプロビゼーションを試みた。

当初ハードルが最も高いと感じていた「即興演奏に事後的に言及すること」が思いのほかスムーズにクリアできたことは、とりあえず今後のセッションへ向けての一安心となったように思う。

次回以降、自分の中で即興演奏はどう発展していくのか(していかないのか)楽しみ(ハラハラ)である。

Imgp7967_2

写真は散策中に撮った一枚。
陸上の風景が池の水面にきれいに映り込んでいたので、画面を上下に二分する線対称の構図を狙った(ノートリミング)。
池に点在する石はもちろん画面上半分にはなく、その石たちが画面にリズムと安定感を与えている(気がする)。

by りき哉

記事へコメントくださる方へ

庭園インプロビゼーション vol.00

楽しみにしていた実験が、いよいよ動き出した。
先日(ログ「メタ認知と音楽表現プロセス」で)予告した、私が被験者として参加する実験である。

これは東京工業大学の藤井晴行先生による研究で、簡単に(私なりに)要約すると、庭園における空間体験を音楽として表現するときの認知プロセスをデザイン学の見地から探る、という(私にも非常に興味深い)試みである。
そしてこの試みにおいては、その認知プロセスのメタ認知が重要な役割を担う、ということらしい。

庭園では、たとえば・・青空の下、目の前に池があって、石があって、木もあり、人もいる。
それらの形や配置や色や・・無数に分解できる要素群から、私は何を抽出し、何にフォーカスを当て、それをどんなふうに即興的に音楽に変換するのか。
そしてその変換の仕方は、体験を重ねていく過程でどのように変化していくのか(あるいは変化しないのか)。

さらに、この実験を逆から(つまり被験者としての私の立場から)見ると、自分自身のフリー・インプロビゼーションを再解釈することで自分が空間の何を感じているのかを(科学的な手続きを経て)事後的に知ることになるかもしれない、という興味もあり、そんなことも密かに期待している。

実験の具体的な手順は・・・

[セッション1]
庭園に行き、そこで感じたことをその場でフリー・インプロビゼーションで表現し、そしてその体験(つまり音楽表現したプロセス)を言葉で自ら語る。
また、表現者はその空間の写真も撮る。

[セッション2]
時間(日)を置いてから、セッション1の録音を現地で(あるいはスタジオなどで現地の写真とともに)鑑賞し、再解釈したことを言語表現する。
そしてそれを踏まえて、新たな音楽表現(フリー・インプロビゼーション)を行う。

[セッション3以降]
前回までのセッションの再解釈、そしてそれを踏まえた新たなセッション、というサイクルを(現地またはスタジオなどで)重ねる。

[別の庭園でのセッション]
上記のセッションを、各地の庭園で行う。

だいたい、こんな流れで進んで行く予定である。

藤井さんは今回の実験につながる研究を長年なさっているのだが、空間体験をピアノ(デジタル音源)で即興演奏するこの実験は新規のプロジェクトであり、私は被験者の第一号である。(第二号以降もあるのかは知らない)

だから上記の「実験の手順」は現時点でのイメージ(に近いもの)であって、実験の進め方については私も希望を出したり、何かアイディアがあれば提案したりしてブラッシュアップしていく余地もある。

空間体験と音楽表現の間にはどんな関係があるのだろうか。
それ以前に、とても複雑だと思われるその関係をどんな風に顕在化(モデル化)することができるのか、現時点の私には未知であり、その未知性もまた楽しいことである。

一つ一つのセッションで作る音楽は、数分にわたる演奏もあるだろうし、ほんの断片的なモチーフのみの場合もあるだろう。
実験は何ヶ月間に及ぶことを想定している。
私としては、最終的には、一連のセッションを包括した自己の音楽作品をまとめ上げること・・を目標に臨んでいく所存である。

さて、その実験初日に何を思ったか、首尾はどうだったか、続きは次稿にて。

by りき哉

2010年5月 2日 (日)

五月の光景

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今年の4月は随分と雨が続いていたが(雨量も寒暖の差も記録的だったとのことだ)、津軽民謡を3曲アレンジしたりそれのリハーサルがたくさんあったり・・という(一週間ほどにわたる)日々が一段落して、5月に入った今日はこの季節に相応しいポカポカ陽気。
差し迫った宿題などもないので、この二日間は音楽テンションを下げて「OFF」とすることにした。
しかし前にも書いた通り、仕事OFFということは、「お父さん」ONということである。

というわけで、息子(4歳)とも相談して、自宅から(大人の足で)徒歩30分ほどの下北沢まで家族でお散歩。
私はちょっと散歩撮影の気分で。

ああ、この陽気と光、緑・・!
5月は、私の一番好きな季節だ。
(8月になると8月が一番好きな季節だと感じるのだけど)

以下の3枚は組写真として組んでみた(つもり)。

1
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2
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3
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三枚組タイトル「五月の光景」

この日の散歩の風景を時系列で並べてある。
1枚目と2枚目には「葉(の緑)」という共通項、2枚目と3枚目には「流れ落ちる水」という共通項があり、しりとりのような繋がりがあって面白い。

葉とトタンの塀、子供の顔と手漕ぎポンプから落ちる水、水飲み場の水と台、それらに注ぐ光は一貫した同質のやわらかさを備えていて、一日の連続性を描くことに成功している。

横組でなく縦組にすることで、2と3の繋がりにおいて水が下へ下へと落ちて行く重力を強く意識させ、全体に安定感を与えている。また、光が上から注ぐのに沿って1,2,3と自然に視線を移すことができる。

子供の写真は1・3枚目に対して異質に過ぎたか、あるいはこの変化は好ましいものであるか、迷いが残る。

・・・というようなことを考えながら(この日の写真から選ぶという制約のもとに)組んでみた。

私は組写真の何たるかについてまったく解っていない素人である(ことは言わなくても見通されていることを前提している)が、組写真という表現形式には何かものすごい深さがあるようには感じていて、う〜ん、なんとかその奥義の入り口だけでも解るようになりたいものだ・・と憧れているのである。
(だから上述の解説は「笑うところ」です。為念。)

まあ、現時点の自分の理解(の浅さ)を記録しておくことは、きっと将来自分が成長したときに微笑ましく、また自己の軌跡を肯定するささやかな材料にもなるであろう。

ちなみに、今回の写真を1枚ずつ単独で見た時、「一席」は記事トップに掲載した(縦の)写真だと思っている。

さて、明日は子供とどこへ行くことになるかな。

by りき哉

追記(5/3)
組写真は、1枚目の葉っぱと2枚目の子供が上に伸びていくようで、水が下に落ちる方向との対称性が感じられるところも面白い、という好意的な指摘を友人からメールで頂いた。
なるほど!本当だ。

葉っぱも子供も上(光の注ぐ方)を向いており、また両者ともこれからぐんぐんと成長していくエネルギーを持った存在である。生命力という点でも、1枚目と2枚目は密接に繋がって五月という季節を象徴していたのであった。

中核となるような新たな解釈の提示をどうもありがとう。

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