フォト

カテゴリー

« 金子雄生セッション#2(10/8追記) | トップページ | 秋元順子さんのサポート »

2008年10月 3日 (金)

奏でるトイピアノ〜慈しむべき音

サブタイトル
〜楽器哲学に関する私論、そして買い物について〜


キャットフードを買いに某ディスカウントショップへ行って、素敵なトイピアノを発見した。

電子式のおもちゃピアノが並んだ棚の横を通り過ぎる際に、床にちょこんと置かれていたそのピアノを息子(2歳)が弾き(叩き)始めたのを聴いて、おっ、それはアコースティックじゃないか、どれどれ、ちょっとお父さんに貸して・・・と。

ハンマーで金属の(板状か棒状の)振動体を叩いて発音する、アコースティック・ピアノである。
昨今はおもちゃピアノも電子式が主流だから、なかなかこういうメカニカルな方式のものは見かけない。

私は、電子トイピアノには「子供に与えるおもちゃ」としてもまったく興味なく、むしろそういう(電子式の)ものは子供の感性を育む上でも弊害があるのではないかとまで考えているのであるが、このようなメカニカル方式のトイピアノには、こんどは反対に「おもちゃ」を通り越して「楽器」として興味津々なのだ。

だから、たった今も、このトイピアノを息子に買ってやろうかと思って見ているのではなくて、自分の趣味として、あるいは仕事の道具になるものとして観察しているのである。
息子はウチにホンモノのRhodes Pianoもグランドピアノもあるのだから、それで遊べばよろしい。

どれどれ・・・、息子から取り上げて早速弾いてみると、ガムランをも彷彿させるチャイムのような、可愛らしいくも太く芯のある音がする。

なんと言っても、実際に楽器が空気を振動させて生みだす音の「実在感」は心地よい。
素朴だが、今この空間で確かに鳴っている、慈しむべき音。

ICチップから電気的に作り出される音には、リアリティも奥行きも感じることはできない。
あらゆる楽器は、その楽器特有の声(音色)を持っており、それゆえ私たちはその音を慈しみ、その音に耳を傾ける。
しかし電子ピアノには、スピーカーが鳴るより以前に「音」は実在しない。

楽器を「弾く」と言うのでなく「奏でる」と言うとき、ひと際その音を大切に聴き取り、その音を愛撫するように慈しんでいる様子が暗黙に前提されていると思う。
「笛の音を奏でる」も「ギターを奏でる」も「トランペットを奏でる」も「ピアノを奏でる」も、ことばとして自然に成り立つ表現であるが、電子ピアノは「弾く」ことはできても、「電子ピアノを奏でる」という日本語は成立しない。(と思う)

それは、奏でるべき音を、そもそも電子ピアノが持たないからである。
あるのはビットデータとそれを演算する論理回路、そして結果を増幅し再生するシステム。
ビットデータは奏でるものではなくて、読み出され再生されるものだ。
電子ピアノの鍵盤は単にデータを再生するための電気スイッチに過ぎない。

しかるに、このトイピアノは奏でるべき「声」を持っている。
身体(の動き)と楽器は一体となって空気をじかにふるわせる。
弾くと楽器の振動が鍵盤から指先に伝わってくる。
だから心も振動する。

そして、あらためてこのトイピアノ全体を見回してみると、おお、なんと素晴らしいことに、ボディーはすべて木でできているではないか。
合板だけど、木製品としてとてもしっかり作られている。

木はいい。木にはぬくもり、あたたかさ、やさしさがある。
これがボディーがプラスチック製だったら、私もハナから興味を持たなかったであろう。
やはり、プラスチック製のものばかりに囲まれていると、子供の感性を育む上で弊害があるような気がする。
幼少期こそ特に、土とか、木とか、自然のものに触れて育つことはとても大切なことだと思う。

・・尤も、今トイピアノを見ているのは子供のためではなかった。
ともかく大人も木の手触りには心安らぐし、それに楽器として、プラスチックと木では響きがまったく違う。

このピアノは、材の厚みもあり、ずっしり感があり、単なる飾り物としても成立するくらいの質感と存在感を持っている。
これくらい良くできていると、どうして鍵盤が木と象牙と黒檀でなくプラスチックであるのか唯一残念に思えてくるほどである(が、そこは許容しよう)。

鍵盤のサイズがトイピアノにしてはけっこうあって、私の手でも弾きやすい。
と思ってよくよく(手で)測ってみたら、奥行きは小さいけど横幅は本物の鍵盤と同じ、フルサイズだった。
ピッチは甘いが、それも素朴な味わいだ。

それにしても、いったいどこのメーカーだろう。
ボディー前面にはエンブレム的にKIDDY KEYSと書いてあるけど。
アコースティック・トイピアノでは、私が知っている限りでは河合楽器のものがあるが、これはカワイ製ではない。

このピアノが置いてあった近くに、1980円と書いた値札が下がっている。
この「せんきゅうひゃくはちじゅう円」って、このピアノのことだろうか?
カワイのアコースティック・トイピアノはたしか、1万5千円くらいした記憶がある。
この作りでこの値段は信じがたく、店員さんに確認した。
間違いなく1980円だった。

私はモノにこだわる性分なので、いくら安くても自分が本当に気に入らなければ買うことはない。
反対に、自分が本当に気に入れば、どんなに高額なものでも金(カネ)に糸目をつけずにポンと買う。
というような懐の大きさを(財布にも心にも)持ちたいと日々願っている。

さて、このトイピアノは、安いことは間違いない。安すぎる。値段から考えると、この作りの素晴らしさは驚嘆するばかりだ。気に入った。
しかし、だからといって買うという結論にはならない。
果たして、このトイピアノは私に必要だろうか。
問題はそこだ。
どれほど割安感があり且つ気に入ろうとも、無用のものを買うほど(財布も空間も)余裕はない。
今までそれが無くて問題なくやってきたのだから、きっと必要ではないに違いない。

しかし、人生には必要なものだけがあれば良いのだろうか。
無駄を排し、合理性ばかりを求める姿勢からは、余裕のある深い音楽は生まれてこないのではないか。
音楽には奥行きと幅が必要だ。遊びが大切である。
タンスの引出しの遊びとか、ハンドルの遊びとか、部品の結合の余裕のことを「遊び」というが、そういう余裕がないと音楽も窮屈でつまらなくなってしまう。
リズムにも遊び(拍と拍の結合に余裕)がないと、グルーヴしない。

10分余りに渡る、このような深い洞察と思慮の末、買うことにした。
日頃、石橋を叩いても(まだ心配で)なかなか渡らない私としては異例の即断だったと言って良い。

しかし何せアコースティック楽器であるから、個体ごとにピッチ(の正確さ)も違うだろう。
ピッチが良いものを選ぶため、店員さんに在庫をすべて持ってきて欲しいと頼んだら、倉庫から2台持ってきてくれた。
1980円のおもちゃピアノを買うのに在庫すべて試奏したいと言う客を、店員さんは「変わった客だ」と訝しく思ったか、「ただならぬ音楽家に違いない」と恐れ入ったか、何とも思わなかったか、いずれかであろう。
合わせて3台を試奏し、けっきょく最初の店頭品を選んだ。

取説を読んで判明したことは、アメリカ(カリフォルニア)のメーカーであること。
部品(鍵盤アクション)が壊れたりしたときは、交換パーツが用意されていること。それは心強い。

また、心臓部である振動体の鉄ロッドは、おお!ドイツ製とのことだ。
三味線や尺八がドイツ製だと言われるとちょっと心配になるが、ピアノの部品がドイツ製だと言われると何だか安心感を覚えるものだ。
どうりで良い音がするわけだ、と納得する気分になってくる。

自宅のグランドピアノとL字に配置して一緒に弾いてみたりした。
うん、楽しい!使える!
音の存在感はグランドピアノに負けていない。

アクション部がどうなっているのか見たくて、天板を外してみた。
なるほど。外見はアップライトだが、アクションにバネは使われておらず、ハンマーの自重で元に戻る仕組みである点はグランドピアノに近い。
連打にもけっこう追従するし、タッチに対する音色変化も楽しめる。
とてもシンプルかつ洗練された機構に、刺激とちょっとした感銘を受けた。

ひょっとしたら、Rhodesと同じようにロッドにバネ等(おもり)をつけてピッチ調整ができるかもしれない。こんど試してみよう。
また、プラスチックのハンマーが打弦しているが、この部分も加工すれば自分オリジナルの音色を求める余地もありそうだ。
天板は4つの木ネジで固定されているのだが、これをグランドピアノみたいに開閉できるように改造しようかな。

なんだか、家具作り職人としていろいろとアイディアが浮かんできた。
在庫全部買ってきても良かったかな。

とても賢い買い物をした気がする。
ようこそ、ナマトピ(なまトイピアノ)くん。

Toy_piano1


Toy_piano2
天板と前面を外したところ。

Toy_piano3
アクション・ハンマーとドイツ製の鉄ロッド。
左の方2つ鍵盤を弾いているのでハンマーが上がっている。
背面には合板でなく木質圧縮ボードが使われている。

by りき哉

« 金子雄生セッション#2(10/8追記) | トップページ | 秋元順子さんのサポート »

4 : OFFの日記」カテゴリの記事

1: 随想録」カテゴリの記事

コメント

トイピアノを探しています。
もしよろしければ購入したお店を教えて頂けたらと思います。
宜しくお願いします。

ドン・キホーテ環七方南町店です。

どーもありがとうございます!
さっそく行ってみます!
ありがとうございます。

遅ればせながら、デジピ・エレピ・トイピの考
お説ご尤もかと思いました
ですが、一言申させていただけるなら
鍵盤弾きにとって、音が出て奏でられる形態をとられたものは
全て楽器と見做し、その機に有った適切な奏法で弾き楽しむべきだと思います

電子式だからあれは楽器じゃない

この一言で全シンセサイザーを否定する事になりかねません
シンセがお嫌いなのでしたら仕方ありませんが
エレピもハモンドもそれらを電子式に変えたものも
また、シンセサイザー(デジ・アナ問わず)も好きなので
お説は尤もでも、何か違うなと思ったのでコメントさせていただきました

弘法は筆は選ばないのです
文句は言ったかもしれませんがねw

流しの鍵盤弾きさん、初めまして。コメントどうもありがとうございます。(数日ほど旅先だったためコメント確認できず、公開とお返事が遅くなりまして失礼しました)
そうですね。もちろん、いろいろな意見がありますよね。

「音が出て奏でられる形態をとられたものは全て楽器と見做し、その機に有った適切な奏法で弾き楽しむべき」とのご意見に、特に異論はありません。私もそう思います。
弘法が筆を選ばないことや、臨機応変に物事を受け入れること。それらは、この二つの記事で述べましたこととはまた別のお話ですね。

「説は尤も」と感じながらも「何か違うな」と思われたのは、複数の論点が混在したためではないでしょうか。

デジピとエレピの記事(注1)の中の「デジタルピアノは楽器とは言えない」という言い方は挑発的で、そこに違和感を覚える方もいらっしゃるかとは思いますが、それは「対象を深く見極めることの大切さ」を語るための、いわば強調文に他なりません。
言わずもがなですが、「それが楽器であるか否か」の境界線は、その対象に内発的に生じるのではなく、それを捉える私たちの価値観の中から生じるものです。

二つの記事はいずれも、「音の実在性」を論点として楽器を切り分けています。音という現象を「空気の振動を身体(最終的には脳)が捉えること」と定義づけた上で、空気を振動させるに至った「物理的に運動する何か」が実在するのかどうか。「何か」には、弦なり、膜なり、唇なり、リードなり、気柱なり、いろいろとありますし、ハモンドオルガンの場合はトーンホイールという歯車が物理的に存在します。机や椅子でも、道ばたに落ちている石ころでも、実際に空気を振動させて音を出すことでそのまま楽器として使うことができます。
一方で、デジタル信号に変換された「音」は、実際に空気を振動させるという過程を経ないまま直接に脳で認識させることをも可能にするでしょう。
そこにラインを引いてみることには、小さくない意義があるように思うのです。
この話は、「実在とは何か」「認識・意識とは」といった古来からの哲学的議論と無関係ではいられません。

以上の文脈はシンセサイザーを楽器として否定することになるのか。それは、またもう少し話を切り分ける必要があると私は思っています。
このことについてはいずれ書きたいと常々思っているのですが、結論だけ述べれば、シンセサイザーを全否定する考えはもちろん毛頭ありません。(私自身、例えばテクノミュージックからも多大な影響を受けています)
それは、音の実在性という切り口ではなく、演奏する側の「演奏という行為に対するスタンス」がボーダーラインになると思っています。
どういうことかと言いますと、「その機器が生み出すその音を欲してシンセサイザーを使うこと」や、あるいは「音の新たな可能性を拡げるためにシンセサイザーを使うこと」と、「何かの代用としてPCMシンセサイザーを使うこと」の間には、とても大きな断絶があるように感じるのです。
このことに関しては拡げたい話がいろいろとあるので、また機会を改めたいと思います。

デジピに関しては、一昔前と比べれば「本物らしさ」に於いて大きく進歩しており、シミュレーションの項目を更に増やし細分化していけば、将来的に(その意味するところは別として)実用上は生ピアノと区別する必要のない次元に辿り着く可能性もあるのでないかと感じています。今(2012年)現在の技術でもそれに近いレベル(演奏者が大切にしている要素の殆どを制御すること)は可能であるとも思えるのですが、現状では「市場のニーズ」と「開発・製品化に要するコスト」の割が合わないのでしょうか。
たとえば、グランドピアノは「鍵盤を上げるスピード(つまりダンパーの弦への触れ方)」によって「音の消え方」が変わりますが、それをシミュレートしているデジピは現在まだないようです。それは、パラメータとしてほんの一例に過ぎません。

繰り返しになりますが念を押しますと、本物とシミュレーションの違いについて述べることは、シミュレーションを使用することへの否定を含意しません。弘法大師も、筆の違いが解らなかったのではなく、違いを解った上で使いこなしていたわけで(文句は言ったかもしれないのですから・笑)、違いを知ったり感じたり、その意味を考えたりすることも大切なことだと思うのです。

ちなみに、「鍵盤弾きにとって」とのことですが、この文脈に於いてインタフェイスが鍵盤であるかどうかは無関係です。これは鍵盤弾きに限定される話題ではなくて、音楽家にとっての話であるのではないかと。

対象をどんな視点で切り取るか。
その視点の多様性と切り口の深さを思うと、その果てしなさの前に立ち尽くしてしまうほどですが、物事の無数にある切り口の中から一つの切り口を提示できたなら、二つの記事を書いた甲斐は充分にあったのだと思っています。

そしてまた、こうして文章に書くことは、私自身が「自分が感じていることは何なのか」を知るためでもあります。
(そのためにお返事が長くなりました)どうもありがとうございました。

【注1】
「ローズ・ピアノ出動!(エレピとデジピは違うよ)」のURLはこちら。
http://rikiyapiano.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-6c84.html

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 奏でるトイピアノ〜慈しむべき音:

« 金子雄生セッション#2(10/8追記) | トップページ | 秋元順子さんのサポート »