音楽を深く感じるために
いっさい何も決めずに、心を静めて、まず最初の音を出す。
「最初の音」は、単音でも良いし、和音(重音)でも、旋律でも、リズム(の断片)でも良い。
但し、これから始まる音楽について、何も予定しないように注意しなくてはいけない。
最初の音を弾く瞬間まで調性(キー)も決めないし、そもそも調性があるかないかも決めない。
音楽に抑揚や変化を持たせるか(例えば最初は静かに始めてだんだん盛り上げていくとか)、そういう「話の流れ」みたいなことも予定しない。
風景なり感情なり、何かを表現しようという目標も持たない。
これから一体どんな音楽が生まれるのか自分自身でもまったく未知である、という白紙状態で始めるのである。
唯一のルールは、音楽として始まりと終わりがある、ということ。
いつの間にか始まって何となく終わるのではなくて、始まりの瞬間と終わりの瞬間を「明確に」持つ、ということ。
そう思って、さあいざピアノを弾こうとすると、最初の音をどうするかという葛藤がまず生まれる。
鍵盤は88ある。組み合わせを考えれば、選択肢は無限にある。
組み合わせを考えずに最初は単音と限定してみても、その一音を弾く強さ(音色)の可能性はやはり無限にある。
さて、何を弾こうか。
でもとにかく、まず静寂に耳を澄まし、ある瞬間にフッと決断して手を鍵盤に下ろしてみるのだ。
そして放たれた響きに耳を澄まし、次に弾くべき音、あるいは取るべき間を感じとれたら、それを続けていく。
大切なことは、雑念を持たずに意識を音楽の奥深くに集中することだけである。
身に染みついている音楽理論や慣習にとらわれたり、ましてやそれに頼ったりしようとすると、たちまち真の音楽に対する集中力は途絶え、明確な終わりの瞬間まで音楽を続けることは決してできない。
ちょっと油断すると、左手が何かのコードを安易に押さえてしまったりして、そうするともうその一瞬で自分の気持ちが萎えてしまうのだ。
音楽がそれまでの必然的なエネルギーの流れを失ってしまったことを、自分が明確に感じとるからである。
(まるで、素直な心を持っている間は魔法が使えたのに、傲慢な心を持った途端にその力を失ってしまった、というおとぎ話みたいだ)
常にその瞬間瞬間に耳を澄まし、何にもとらわれることなく自分をオープンに保つことができれば、やがて終わるべき瞬間を、まさにその瞬間に感じとることができる。
いわゆる「フリー・ジャズ」のイメージとは、たぶん少し違うだろう。
「フリー」というカテゴリーが示す多くの音楽も、言ってみれば一つの方法論であり、一つのコンセプトだ。
既知のフォームなりメロディーなり、あるいは何らかの概念から離れようとすることは、それはそれで一つのベクトルを持つことになる。
いまここでやろうとしていることは、その刹那刹那に耳を澄ます、ということであって、それだけである。
だから、最初にある種のベクトルを設定することもしない。
結果として音楽が、ありふれた平凡なもの(例えばごく普通のコード進行を持ったポップスのようなもの)になっても構わない。
何か新しい視点を獲得したものであったり、既成概念に異を唱えたりするものである必要は何もない。
それに、技術的に高度なものである必要もない。
あとからそれを譜面に起こしてみたらまるで楽器の初心者でも弾けるような、簡単でシンプルな音楽になっても良い。
きたない音楽になっても良いし、美しい音楽になっても良い。
自分がその瞬間を深く感じとって、それに従ってリアルタイムに完結させた音楽であれば、そういう自覚に確信が持てれば、結果はすべて受け入れる。
というような考えのもとにやってみたソロ・パフォーマンスの録音がこれである。
Free Improvisation Rikisac080527 #1~#4
「rikisac080527.mp3」をダウンロード
2008年5月27日 東京 Hocola studio における録音。
piano 中村力哉
ファイルは一つだが、この中に4テイクのインプロビゼーションが含まれている。
この4テイクはほんの20分ほどの間に立て続けに弾いた録音なので、全体としてひとつの共通するムードみたいなものが感じられる、ように思う。
ピアノの調律は大分バランス悪いが、それも含んだ上での自由即興演奏である。
日頃、私の仕事フィールドでは「即興で完全に無制約で音楽をクリエイトする」ということは基本的にはない。
「アドリブ」と言っても、かならず何かしらの制約、言い換えれば「沿うべきガイドライン」がある。
テンポとかコード進行など音楽の構造上の制約・ガイドラインもあるし、TPO上の制約(たとえばホテルのラウンジで演奏する場合の求められる節度とか)がある場合もある。(ラウンジのソロピアノで肘打ちする時は極めてソフトに美しく響かせ、お客さまがびっくりしないよう心がけている)
私が参加しているバンドのひとつ「BANDO-BAND」のライブでは、アストル・ピアソラの「ロコへのバラード」を演奏する際、そのイントロでピアノのフリーソロを任せられる。
しかしそこでは「暑い炎天下のブエノスアイレスの町中、頭にメロンの皮をかぶった気の狂った男がフラフラと歩いてくる様子」を描写するというガイドラインがあるし、そのフリーソロの終わりはイ短調で3拍子を提示してテーマへの導入を果たす、ということが予定されている。(でもそれ以外にはフリーなので、極めて高い集中力とモチベーションを必要とする)
ガイドラインに沿うことは「それに如何に沿うか、どう美しく沿うか(または如何に外れるか)」という難しさ、奥深さがあるが、道や方角が示されているという点では安心感があり、ラクチンだという面がある。
それは裏を返せば、例えばコード進行やリズムをはじめとする何らかの制約・ガイドライン・手がかりがある音楽は、それに上手に沿うことができただけで一定の達成感を得てしまい、真に耳を澄ましていなくてもそれなりに形になってしまう危険性を孕んでいる、ということでもある。
小手先だけの音楽にならないように日々気をつけなくてはいけない。
(・・・と自分を戒めているのである)
完全に自由なインプロビゼーションでは、本当に意識が研ぎ澄まされていないとまったく形にすることができない。
集中せず意識が高まっていない状態でテキトーに自由にやろうとしても、それこそすぐにバカバカしくてそれを続けられなくなってしまうだろう。それは自分の出した音に何の必然性も感じられないからである。
「自由に」と言っても、「何でもアリで、テキトーにやればいい」というのではない。正反対である。
一切の制約も目的も設けずに、自分自身のアンテナをフル稼働してその空間と瞬間をキャッチしながら、あくまでも自然体でその入力に瞬時に反応していくというプロセスは、簡単なようで意外と難しい。
だから、こういうこと(無制約の即興演奏)を試してみることは、私にとって意味のある訓練になる。
実際、これを毎日いつでもパッとできるかというと、意外となかなかできないものである。
その証拠に、ここにアップした録音は数日前のものであるが、今日またやろうとしても、どうしても集中力が高まらず何もクリエイトできなかった・・・。
そしてそれは、べつにぜんぜん珍しいことではない。
ひとえに、私に精神修行が足りない故であろう。
ともかく、あせらず、マイペースで精進すべし、と。
そういうわけで、録音はその時の一期一会のパフォーマンスとして日記に残しておく。
パフォーマンスのクオリティはともかくとして、本当に白紙状態から一瞬先は未知という状態で弾いているので、録音を聞き返してみると自分でも「ほほう、そう来たか、面白いね」というふうに他人事のように聴けて、けっこう楽しめる。
ところで、つい先日のログ(新郎当てクイズのピアニスト版)では「テキトーに構えることの大切さ」について考察したばかりだが、たぶん、大局においてはテキトーに、細部すなわち一瞬一瞬のできごとには極限まで意識を研ぎすます、という姿勢が大切なのではないか。
と、今思った。
by りき哉
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これも非常に興味深かった。私が思ってる事を全部かわりに言葉にしてくれた感じで、いちいちうなずいてしまった。そう。フリー・インプロヴィゼーション演奏時の精神状態って瞑想にも似てる。無になって自我捨てなきゃ出来ないし、弾く、というより、弾かされてる感じ。これをいつもやってる人は本当に凄いと思う。同じメンバーでやっても、その場のお客の「気」というのにも影響されるし。最後の「テキトー」に関する結論もとてもとても共感した。いつも深い題材をありがとう!(録音も面白かった。私もソロでも自分の精神修養のために練習時やってみよう)
投稿: またまた私(わかってる?よね) | 2008年8月 9日 (土) 20時09分
うん。きっと座禅を組んで瞑想するのに似ているね。
(ちゃんとした座禅も瞑想もどういうものか解らないので想像だけど。一度はお寺で体験したい。)
本当は普通に(スタンダード曲を演奏する時のように)コード進行なりリズムなり構成なりの条件が与えられた中でインプロバイズするときも、フリーと同様にそういう無の境地に立っていることが理想なのだけど、やはり何らかの条件があるとどうしても「理性」で考えて臨むということから逃れるのが難しい。
理性からアプローチすることも、それはそれで深い楽しみと喜びがあるのだけど、やはり自分の五感を研ぎ澄ましながら無我の境地に入る、という姿勢は、よほど自分を追い込んでいかないとなかなか保てない。
ほんと、いつもそれができる人は凄いよね。
きっと、キース・ジャレットはそれができている、と思う。
そうそう、その場のお客さんの「気」の影響は大きいね。
(演奏者がお客さんを高揚させることはもちろんとして、お客さんが演奏者を高揚させる、ということも同じようにあるのですよ〜、皆さん!ライブでは温かい拍手と応援をお願いします。)
無目的・無制限のインプロビゼーションは、ココロのパンツを脱ぐようなものだ。
まずはリラックスしていないとダメだね。
よし、やるぞ〜!と思ってもできない。
何かの拍子にスッと入れるのだけど・・・。
投稿: りき哉 | 2008年8月10日 (日) 02時13分
キース・ジャレット・・私も彼を思い出してました。(・・・なんで、そんな私の頭ん中読むんだ?・・・)
ココロのパンツを脱ぐ・・これも正にその通りであります。
まずはリラックス・・。はい。心身を空っぽの器にして宙から何か入ってくるのに任せる・・というか・・でも任せるだけでなく、どこか(漠然としてて何をは言えないが)とコンタクトをとる集中力は使ってる・・というか・・たまに上手くハマると今までやったこともない事を体が勝手にやってたり・・という事も・・ありますね。何かが出来る自分、そして出来ない自分、両方を捨てなきゃね。
技術的練習・・より、器となる心身作り・・って感じですかね。
おぉっ!私も言葉に出来たぞ!(←自画自賛)
ちょっとは「崇高」に近づけたか?(←笑うとこです)
投稿: 崇高を目指す(?)女 | 2008年8月10日 (日) 19時07分
言われる前に笑ったよ!
「崇高を目指す(?)女」とやら、きっと「崇高」は目指せば目指すほど遠ざかっていくのだよ。
「無の境地」と同様にね!
(おぉっ、冗談が本題と繋がったぞ。)
「任せるだけでなく、どこかとコンタクトをとる集中力は使ってる」
うんうん。まさにその通りですな。言い得て妙なり。
その両方が絶妙にバランスしたときに、真のインプロバイズが自然に体現できるのでしょうなぁ。。。
投稿: りき哉 | 2008年8月10日 (日) 23時58分