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2008年6月25日 (水)

順応する力

クルマの側面に文字を書く場合に、クルマの前から後ろに向かって書く、という慣習がある。
その場合、クルマの左サイドはいいのだが、右サイドだと文字列は右から左に向かうことになる。
私が自分のクルマに宣伝を書くとしたら、右サイドは
「哉力村中 トスニアピ」
というふうになる。
(「たけやぶやけた」みたいな回文なら良いのにね・・。)

文字列が通常と反対向きに書かれているためにすぐに読めない、ということはよくあることだ。
そういう時はすぐに、「あ、クルマの前がこっちだからこっちから読むんだ」というふうに理解して、苦労しながら右から左に読む。
そう。そういう時は「苦労」するのである。

ところが、今日はそれと反対の体験をした。

今こうして書いたり読んだりする通常の文章と同じように、ちゃんと左から右へ向かって書かれた文字列を、とっさに右から左へ読んでしまった。
私が見たのがクルマの右サイドだったので、無意識に、クルマの前から後ろに向かって読んでしまったのである。

読んでみてから意味が不明なので自分のまちがいに気づいた訳だが、気づいたあとも、普通に(左から右へ)読むことに強い違和感を持ってしまい、
「あれ、文章って本当はどっちから読むんだっけ?」
というように頭がコンガラガってしまったのだ。
ごく普通に読むことに苦労を要したのである。

これは驚くべきことだった。
それほどまでに私は、「クルマに書かれた文字はクルマの前方から読む」という慣習に毒されていた、ということである。

それとも、これは「人間が持っている認識適応力の高さ」に感嘆するべきことなのだろうか。
その慣習に長らく接している間にいつの間にかそれに適応していた、ということである。

慣習に毒されていると見るか、認識適応力が高いと見るか、ということは同じ事柄をマイナス思考で捉えるかプラス思考で捉えるかの違いかもしれない。

音楽で言えば、たとえば12音平均律について。
この音律は、物理的にはオクターブ以外の音程はすべて厳密にいうと協和していない。
それでもいろいろな点で「便利」だから、数学的に作り出されて、いまの私たちの世界では「標準」になっているのである。

多くの人は音律の物理的なことや数学的なことは知らずに、それでもこの音律に違和感を持つことなく音楽を聴いているだろう。
私も、12音平均律で調律された(つまり普通の)ピアノの響きに、無限の美しさを感じる。

これは果たして、我々はこの音律の慣習に毒されている、と見るべきなのか。
それとも、我々のそのような認識(音を感じる)適応力の高さ(柔軟性と言ってもよい)を評価するべきなのか。

似たようなことで思い出したことがある。
鏡像の認識の仕方についてのエピソードだ。

けど長くなるので、話をまとめないまま、続きはまた今度。
(「今度」は次回とは限りません。いつかな。)

by りき哉


2008年6月15日 (日)

金子雄生セッション#1

音楽への向き合い方というのは、それこそいろいろな姿勢があって、そのことを想像してみると気が遠くなるほどである。

先日、トランぺッターにして民族楽器奏者である金子雄生をリーダーとするセッションが、東京の下町・砂町銀座の小さな喫茶店「Cafe PARISDOR」であった。

彼とは過去に一度だけ共演したことがあった。
たぶん10年くらい前だったと思う。
彼のリーダー・グループに、トラ(代役)で私が参加したのだった。
その当時すでに彼はアフリカを主とした民族音楽に深く傾倒していて、独自の世界を展開していた。(という印象が強く残っている。)
たった一度会ったきりで、そのとき以来、二度目の共演である。

物事にはタイミングというのがある。
音楽への向き合い方が、たぶん、10年近くの時を経てお互いに重なり合うところが顕在化してきたのだろうと思う。

今回もう一人のメンバー、パーカッションの渡辺オサミとはセッション当日に初対面。
その二人と私によるトリオ。

一体、どんな曲をやるのか、いや、そもそも「曲」をやるのかどうか、何かコンセプトや思想の具現という目標があるのか、何も知らされないまま、そして私も訊きたいのを我慢して敢えて訊かないまま、当日を迎えたのだった。

お客さんは靴を脱いで、床に敷いた座布団に座って、小さな店内はギュウギュウの満員御礼。
(実はここで告知しようと思ったときは既に予約完売だったのでした。悲しいやら嬉しいやら。反省。)

音楽のフタを開けてみると・・・。
ビヨ〜ン、ブンブンドンドン、プヮワ〜ン、カシャカシャカシャ・・・
って、何のことか判んないね。
南米やアフリカや、オリジナルの民族楽器もたくさんあり、私もピアノ(デジピ)にKORGのKAOSS PADという飛び道具を使ったり、秘技のタブラも叩いたり。
上のオノマトペは、別に効果音のような音楽だけで終始したという意味ではもちろんなくて、美しいコード進行もあったり、いろいろなリズムがあったり・・・。

しかしそういう表面的なことを書いても、あの場の音楽については何も伝えられないだろう。

とても自由で、大らか。
テキトーだけど、真剣に音に立ち向かって行く。

こういう風に大らかに自由に演奏するには、共演者それぞれの「音楽への向き合い方」が多彩に重なり合っていないと成立しない。

前々回のログ「音楽を深く感じるために」に書いたこととも通ずるところがある。

他の場ではできないことをやれそうなこのセッション、これからの展開が非常に楽しみである。
ちょっと新たな世界に足を踏み出しちゃうかも。
それも必然のタイミングなのだ。
と思う。
ワクワク。

今回のセッションにお越し下さった方々、どうもありがとうございました!

追記(8/8)
このライブ録音がCD発売になりました。
その記事がこちら




date
2008.6.12
the session at parisdor
cornet,etc. 金子雄生
piano 中村力哉
percussion 渡辺おさみ





080612


























by りき哉





2008年6月10日 (火)

SHAH高松ツアー日記

SHAHについては先日少し書いた。(こちら
Shah_takamatsu_02_3 本番前日の6月7日、東京より空路で高松へ。
高松といえば讃岐うどん。
コンサート主催の方が、空港からまずはうどん屋さんに連れて行ってくださる。
とても美味しくて、おつゆも全部飲み干す。
ごちそうさまでした。
そして皆で神社へお参りしてからホールへ。

Shah_takamatsu_04_3

 

 

サンポートはまだ新しい建物で、きれいで立派なホールだ。
今回、私はピアノに加えてローズピアノも弾く。
写真の通りホンモノのRhodesスーツケースである。
(知らない人のために注釈しておくと、ローズピアノは電気ピアノである。電子ピアノではない。)
スーツケース・タイプは鍵盤がアンプの上に乗っていて、弾いていると身体全体が音に包まれてとても気持ちよい。
Shah_takamatsu_03_4

 

ちなみにこのRhodesはSHAHのキーボーディスト&マニュピレータであるH〆Yさんの持ち込みである。
そのH〆Yさんの要塞にはざっと見て7台くらいのキーボードが、コの字型に配置されている。ホンモノのクラビネットも設置されている。
キーボード&コーラス担当の本間知子さんにはホンモノのMOOGもある。
3人の実に壮観なキーボード編隊!

 

リハーサルをたっぷりして、打ち上げに招いて頂いて、ホテルに戻ったのは深夜の2時半くらい。

 

 

そして一夜明けて本番当日。

 

軽い全体チェックの後、13時から本番スタート。
今回、SHAHコンサートのテーマタイトルは(和魂漢才・和魂洋才ならぬ)「和魂洋奏」!
つまり「和の魂を以て(持って)洋を奏でる」ということである。

 

さて「和の魂」って、その本体は何であろうか?
私たちが普段とくに意識せずとも自分の中に自然に受け継いで持っているものなのか、あるいはそれは、近年のグローバル化が加速する中で急速に失い変質しつつある何かなのか。

 

確かなことは、SHAHリーダーの工藤武さんは、それこそ和の魂そのものであることだ。尺八の佐藤英史さん、和太鼓の美鵬成る駒さん然り。
こういう素晴らしい人たちと共演するときに圧倒されるのは、その魂によってなのであろう。
自分が少なくともそれを感じられるだけのアンテナを持っていることは幸いである。
しかし、それをもっと鋭敏にしなくては。

 

というような難しいことを考えることも一切なく、本番はただ楽しくピアノとRhodesを弾いた。
演奏しながら、ゲストである角田洋若さんの舞踊にウットリしたり。
同じくゲストの仁木宏宗さん、涌井晴美さんの民謡も堪能でき、洋楽器組はメインヴォーカルのKAZUMIさん、バックヴォーカルのJACKIEさん、ベースの篠田健一さんとドラムのJUNJUNさん、そして上述の3人キーボーディストという編成で、演目はSHAHのオリジナル曲と民謡なのだけど、ジャンルで言えば、ポップスあり、ハードロックあり、ジャズあり、民謡ありの、ジェットコースターのような(楽しい)SHAHワールドだったのではないか。
会場は高校生くらいの若い人から年配の方々まで、文字通りの老若男女。
皆さんとても楽しんで感じてくださった様子で何より。
大成功でコンサートは終了。

 

前日に引き続き、主催の方々に打ち上げでごちそうになる。
フグの唐揚げなど、美味しい美味しい。
ごちそうさまでした。

 

そしてその後、私の中ではこの旅のもう一つのクライマックスである、愛しのカフェ「umie」へ。
umieについては以前に書いた。(こちら
私は盛りだくさんなスケジュールの合間を縫って、独りでも這ってでも行く決意ではあったのだけど、結局バンドメンバー全員を含む総勢15名で訪れることに。
この日は日曜日で、実はお店の営業時間内に行くことが叶わなかったのだが、私たちのために特別に対応して下さったのだった。
私はただ感謝しきりで感激するばかり。
店長の松下さん、どうもありがとうございます!

 

一緒に行った仲間たちも、一歩中に入るなり(いや、建物の前についた瞬間から)本当にその空間を心から気に入り、感動すらしながら、寛ぎ、ゆったりと楽しい時間を過ごしている。
皆から「りきりき、素晴らしい!どうもありがとう!」と感謝される。
うん、うん。そうでしょ、そうでしょ!
何だかピアノ演奏以上に手柄を立てた感じ。

 

umieの母体であるデザイン会社D.N.Aの柳沢さんと、オープンにしていくことの大切さについて、ちょっと語り合った。
自分を周りに開いて行く、ということ。
umieのこの空間は、とてもアーティスティックでありながら、かつ温かい気に溢れている。
こういう雰囲気は、デザインだけ技巧を凝らしても表現できるものではないだろう。
それを作る人のオープンな姿勢や気持ちが、その空気となってこちらに響いてくるのだ。
そういうことを音楽を通して感じることは多いが、ここでは空間から、それを明快に感じることができる。
私が自分のtextや音ファイルをwebにアップすることも、どちらかというと内向的である自分を努めてオープンに保ち続けようとしていますよ、という姿勢表明のような、ささやかな営みだと思っている。
そうあろうとする、自分への確認作業だと言っても良いだろう。
Shah_takamatsu_05_2

 

 

D.N.Aの柳沢さんと川井さんと、umie店長の松下さんと、4人で写真をパチリ。
とても嬉しい、半年ぶりの再会であった。
umieのオリジナル・コンピレーションCDが近く発売になるとのこと。
これには私が参加しているbando-bandの曲も収録される。
うれしいことだ。(ねっ!大久保かおりさん@bando-bandリーダー。)
umieでは不定期にライブイベントを開催しているので、近隣の方は要チェックである。

 

半年ぶりに食べた、愛しのカレーはやっぱり美味しかった!
写真は撮り忘れた。
中には私以上にカレーに感銘を受けていた人も。
音楽でも食べ物でも場所でも、自分のオススメに共感してもらえると単純に嬉しい。

 

この後ホテルに戻ってからも軽く皆で飲み続け、楽しいメンバーとのツアーは無事に終了したのだった。

 

工藤武さんはじめ、SHAHのみなさま、どうもありがとうございました。
また次回ライブも楽しみ!

 

下の写真はumieで寛ぐSHAHの面々たち。

 

Shah_takamatsu_10

 

Shah_takamatsu_07_3

 

Shah_takamatsu_08_2

 

Shah_takamatsu_09_2

 

Shah_takamatsu_11

 

 














SHAHの公式サイトはこちら

by りき哉

 

 

 

 

2008年6月 2日 (月)

音楽を深く感じるために

いっさい何も決めずに、心を静めて、まず最初の音を出す。
「最初の音」は、単音でも良いし、和音(重音)でも、旋律でも、リズム(の断片)でも良い。

但し、これから始まる音楽について、何も予定しないように注意しなくてはいけない。
最初の音を弾く瞬間まで調性(キー)も決めないし、そもそも調性があるかないかも決めない。
音楽に抑揚や変化を持たせるか(例えば最初は静かに始めてだんだん盛り上げていくとか)、そういう「話の流れ」みたいなことも予定しない。
風景なり感情なり、何かを表現しようという目標も持たない。

これから一体どんな音楽が生まれるのか自分自身でもまったく未知である、という白紙状態で始めるのである。
唯一のルールは、音楽として始まりと終わりがある、ということ。
いつの間にか始まって何となく終わるのではなくて、始まりの瞬間と終わりの瞬間を「明確に」持つ、ということ。

そう思って、さあいざピアノを弾こうとすると、最初の音をどうするかという葛藤がまず生まれる。
鍵盤は88ある。組み合わせを考えれば、選択肢は無限にある。
組み合わせを考えずに最初は単音と限定してみても、その一音を弾く強さ(音色)の可能性はやはり無限にある。
さて、何を弾こうか。

でもとにかく、まず静寂に耳を澄まし、ある瞬間にフッと決断して手を鍵盤に下ろしてみるのだ。
そして放たれた響きに耳を澄まし、次に弾くべき音、あるいは取るべき間を感じとれたら、それを続けていく。
大切なことは、雑念を持たずに意識を音楽の奥深くに集中することだけである。

身に染みついている音楽理論や慣習にとらわれたり、ましてやそれに頼ったりしようとすると、たちまち真の音楽に対する集中力は途絶え、明確な終わりの瞬間まで音楽を続けることは決してできない。
ちょっと油断すると、左手が何かのコードを安易に押さえてしまったりして、そうするともうその一瞬で自分の気持ちが萎えてしまうのだ。
音楽がそれまでの必然的なエネルギーの流れを失ってしまったことを、自分が明確に感じとるからである。
(まるで、素直な心を持っている間は魔法が使えたのに、傲慢な心を持った途端にその力を失ってしまった、というおとぎ話みたいだ)
常にその瞬間瞬間に耳を澄まし、何にもとらわれることなく自分をオープンに保つことができれば、やがて終わるべき瞬間を、まさにその瞬間に感じとることができる。

いわゆる「フリー・ジャズ」のイメージとは、たぶん少し違うだろう。
「フリー」というカテゴリーが示す多くの音楽も、言ってみれば一つの方法論であり、一つのコンセプトだ。
既知のフォームなりメロディーなり、あるいは何らかの概念から離れようとすることは、それはそれで一つのベクトルを持つことになる。

いまここでやろうとしていることは、その刹那刹那に耳を澄ます、ということであって、それだけである。
だから、最初にある種のベクトルを設定することもしない。
結果として音楽が、ありふれた平凡なもの(例えばごく普通のコード進行を持ったポップスのようなもの)になっても構わない。
何か新しい視点を獲得したものであったり、既成概念に異を唱えたりするものである必要は何もない。
それに、技術的に高度なものである必要もない。
あとからそれを譜面に起こしてみたらまるで楽器の初心者でも弾けるような、簡単でシンプルな音楽になっても良い。
きたない音楽になっても良いし、美しい音楽になっても良い。

自分がその瞬間を深く感じとって、それに従ってリアルタイムに完結させた音楽であれば、そういう自覚に確信が持てれば、結果はすべて受け入れる。

というような考えのもとにやってみたソロ・パフォーマンスの録音がこれである。

Free Improvisation Rikisac080527 #1~#4
「rikisac080527.mp3」をダウンロード


2008年5月27日 東京 Hocola studio における録音。
piano 中村力哉

ファイルは一つだが、この中に4テイクのインプロビゼーションが含まれている。
この4テイクはほんの20分ほどの間に立て続けに弾いた録音なので、全体としてひとつの共通するムードみたいなものが感じられる、ように思う。
ピアノの調律は大分バランス悪いが、それも含んだ上での自由即興演奏である。

日頃、私の仕事フィールドでは「即興で完全に無制約で音楽をクリエイトする」ということは基本的にはない。
「アドリブ」と言っても、かならず何かしらの制約、言い換えれば「沿うべきガイドライン」がある。
テンポとかコード進行など音楽の構造上の制約・ガイドラインもあるし、TPO上の制約(たとえばホテルのラウンジで演奏する場合の求められる節度とか)がある場合もある。(ラウンジのソロピアノで肘打ちする時は極めてソフトに美しく響かせ、お客さまがびっくりしないよう心がけている)
私が参加しているバンドのひとつ「BANDO-BAND」のライブでは、アストル・ピアソラの「ロコへのバラード」を演奏する際、そのイントロでピアノのフリーソロを任せられる。
しかしそこでは「暑い炎天下のブエノスアイレスの町中、頭にメロンの皮をかぶった気の狂った男がフラフラと歩いてくる様子」を描写するというガイドラインがあるし、そのフリーソロの終わりはイ短調で3拍子を提示してテーマへの導入を果たす、ということが予定されている。(でもそれ以外にはフリーなので、極めて高い集中力とモチベーションを必要とする)

ガイドラインに沿うことは「それに如何に沿うか、どう美しく沿うか(または如何に外れるか)」という難しさ、奥深さがあるが、道や方角が示されているという点では安心感があり、ラクチンだという面がある。
それは裏を返せば、例えばコード進行やリズムをはじめとする何らかの制約・ガイドライン・手がかりがある音楽は、それに上手に沿うことができただけで一定の達成感を得てしまい、真に耳を澄ましていなくてもそれなりに形になってしまう危険性を孕んでいる、ということでもある。
小手先だけの音楽にならないように日々気をつけなくてはいけない。
(・・・と自分を戒めているのである)

完全に自由なインプロビゼーションでは、本当に意識が研ぎ澄まされていないとまったく形にすることができない。
集中せず意識が高まっていない状態でテキトーに自由にやろうとしても、それこそすぐにバカバカしくてそれを続けられなくなってしまうだろう。それは自分の出した音に何の必然性も感じられないからである。
「自由に」と言っても、「何でもアリで、テキトーにやればいい」というのではない。正反対である。
一切の制約も目的も設けずに、自分自身のアンテナをフル稼働してその空間と瞬間をキャッチしながら、あくまでも自然体でその入力に瞬時に反応していくというプロセスは、簡単なようで意外と難しい。

だから、こういうこと(無制約の即興演奏)を試してみることは、私にとって意味のある訓練になる。
実際、これを毎日いつでもパッとできるかというと、意外となかなかできないものである。
その証拠に、ここにアップした録音は数日前のものであるが、今日またやろうとしても、どうしても集中力が高まらず何もクリエイトできなかった・・・。
そしてそれは、べつにぜんぜん珍しいことではない。
ひとえに、私に精神修行が足りない故であろう。
ともかく、あせらず、マイペースで精進すべし、と。

そういうわけで、録音はその時の一期一会のパフォーマンスとして日記に残しておく。
パフォーマンスのクオリティはともかくとして、本当に白紙状態から一瞬先は未知という状態で弾いているので、録音を聞き返してみると自分でも「ほほう、そう来たか、面白いね」というふうに他人事のように聴けて、けっこう楽しめる。

ところで、つい先日のログ(新郎当てクイズのピアニスト版)では「テキトーに構えることの大切さ」について考察したばかりだが、たぶん、大局においてはテキトーに、細部すなわち一瞬一瞬のできごとには極限まで意識を研ぎすます、という姿勢が大切なのではないか。
と、今思った。

by りき哉

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